10話 水鳥の帰る場所
急速ダイブで敵を振り切り、着水地点の湖を目指す──。
麁正には車輪の付いた着陸脚が無い。
無駄なウェイトを減らすために、発進時に胴体下部に付いている車輪は、離陸後直ちに切り離して投下してしまう為だ。
一応、地上滑走用のソリは付いているが、そいつで飛行場に降りてしまうと、今度はいちいち台車に乗せ変えなければ移動もままならなくなり、退避に手間取っていると〝落ち穂拾い〟にやってきた敵機の機銃掃射の餌食となってしまう。
空を高速で飛びながら地上目標を探すのは、言うほど簡単なことではないが。
滑走路なんてはるか上空からでもわかりやすい場所で、どっかと座り込んでいる鈍亀な飛行機があったらば、たとえ新米搭乗員にでも簡単に見つけられてしまうという顛末だ。
その点、水上なら曳航するだけなので、まだ幾分マシというわけだ。
それも逃げ切れたらばの話だ。
この時点で高度が足りないともうダメだ。速度が稼げず敵機を引き離せない。
あとは……、言うまでもない結果となる。
ぼくたちは毎回そんなギリギリの賭けを強いられている。
いつも賭けに勝てるわけではない。
そして今日は四人が帰ってこなかった…………。
◆
────夜、ぼくたちは湖にボートで漕ぎ出す。
虫たちが鈴の音を奏ではじめる高原の夏の夜、足にまとわりついていた草いきれとむせた空気の温もりが、ボートを押して岸辺を離れるとスーッと冷たくなるのを感じた。
この基地の搭乗員の非番組は、みんなそれぞれ二人か三人でボートに乗っていた。
ぼくはカイトとふたりだ。
「ドウシャ、一緒に行こう」とカイトが言ったから。
ぼくはカイトに名前を呼ばれるたびに嬉しい気持ちになる。
この戦争がはじまって、編隊空戦が強く叫ばれるようになった。
ぼくはカイトと最小単位である3機編隊の一小隊を組んでいたことがある。
カイトが小隊長で一番機、ぼくは二番機だった。まだ新米の頃だ。
その時カイトがよく言っていた言葉がある。
「どこに居ても、心の編隊は解くんじゃないぞ……」
抜き差しならない空戦に備え、たとえ地上に居るときにでも、常に心理的編隊を組んで、お互いがわずかな所作でも意思疎通ができフォローしあえるようにしておけという事だった。
ぼくは今でもその教えを心がけている。
星空の映る蒼い空と湖に照らされた白いシャツのカイトは、まるでクチナシの花みたいにボートの舳先に佇んでいた。
〝 人目を忍び、語らずとも香りで分かりあえる 〟
────それが「クチナシ」の名の由来と聞いた。
同じだ。
ぼくもカイトと語らずとも分かりあえる努力を続けてきた。
そしてクチナシの夏の始まりに風に乗って漂う、妖精めいた甘い香り。
洗練された優雅な純白の花は。
凛としたカイトのイメージと否応なく重なる。
僕たちを音もなく青緑色に染める夜陰に、そっとオールを差し込んで、幽玄の舞台へといざなう。
水面を掻くと小さく「とぷん」と音がする。
しずくが滴る「ぴちゃぴちゃ」と音がする。
右に、左に、ゆっくりとかわるがわるにオールを差し込んでボートを進めた。
「とぷん……」「ぴちゃぴちゃ…」「とぷん……」「ぴちゃぴちゃ…」
そのひとつひとつの水音が、密会に声を殺した閨のささやきに聞こえた。
ずっと湖が続けばいいのにと僕は思う。
どこまでも、どこまでも。
一晩中こうしてカイトを乗せたボートを漕ぎ続けていたい。
蒼い帳のそのむこうへと遊びに…………。
────別に戦争から逃げたくなったわけじゃない。
ぼくは自分がもらった運命を突き進む。
そう遠くない未来に途絶える運命だったとしてもだ。
それになんの不服もない。
この束の間の尊い時間もその一部だから存在するのだろうと思う。
ただもう少しだけ、あと少し、夢を見ていたくなっただけなんだ……。
湖の中ほどに来ると、死者を弔う灯籠に火を灯し、そっと湖面に離す。
あちらでも、こちらでも、たくさんの灯籠の灯が水面に揺れて漂っていた。
今夜は風がないから、ずっと長く灯が灯り続けるだろう。
大空をさまよえる飛行士たちの魂が、ここに帰ってこられるように。
ゆらゆらと、ゆらゆらと……。
「ドウシャ、沖縄では特攻作戦がはじまったみたいだよ」
カイトが言った。
主力空母をことごとく喪失した我が方にはもう、まともな航空作戦を行う力はなく。
南西諸島で駆逐されゆく地上の同胞への手向けのように、残存戦闘機での特攻作戦だけが続けられていた。
「うん、多くの飛行士が爆装した機体でどんどん敵艦に体当りしてるらしいね」
ぼくは答えた。
カイトは湖面を指先で撫でていた、陶器のような横顔からはどんな感情か読み取れない。
ぼくはサンゴ礁の広がる美しい紺碧の海の、その向こうに浮かぶ無数の敵艦。
そこへ吸い込まれるがに体当りしていく友軍機たちの姿を頭の中で思い浮かべた。
「敵艦の数はあまりにも多いそうだ。
多すぎて海が碧く見えないくらいの数らしい」
国力が10倍違う相手と戦争をすると、こういうことになるんだなぁ……。
ぼくは他人事のように心の中でつぶやいた。
多くの皇国民も同じ想いだろう。
でも偉い人らはどうなんだ?
国力が10倍違うのだから、こうなることは最初から分かっていただろうに。
軍部も勝ち目がないことは、堂々とは言わないまでも理解していただろうに。
────なぜ戦争をはじめたんだろう……?
誰かが強制したわけでもない。いつの間にかこうなっていた。
独裁者も居ない。指導者も居ない。いつのまにか回避不能になっていて。
みんなで責任を取らなきゃならなくなった。
まるでキツネにつままれたみたいだな……。
「この戦争で、ぼくたちの民族は滅びるのかもしれない」
カイトが言うと、映画館で壮大なキネマのラストシーン。その最後を締めくくるナレーションみたいに聞こえた。
ぼくはゆっくりと夜空のスクリーンを見上げた。
それは我が皇国の、我が民族の、過ちだったのか。悲劇か──。喜劇か──。
この小さな島国が、二大国と列強を同時に相手して戦争…………。
おかけで、ぼくとカイトも大陸から南洋諸島まで、さまざまな新戦場の空を巡った。先輩も、同期も、教官も、見知った顔は誰も生き残っていない。みんなカイトとぼくの記憶の中にしか居なくなってしまった。
終わりは近い。
人が死ぬと星になるという
ぼくはどんな星になるのだろう?
願わくば、カイトに寄り添う星になりたい。
そう思いながら、ぼくは先日の出来事を思い出していた──。




