第2話 『路地裏での戦い』
奴隷商の店を出るとそこは薄暗い裏通りであった。左右はレンガ造りの建物で囲まれ、道の石畳はところどころ剥がれ落ちていた。道端では怪しげな薬を吸っている者や、うわ言を呟いている痩せた老人が道端に屈みこんでいる。
だいぶ治安が悪いな。でも辺境の都市の裏にも似たような場所はあるしな。
やがて裏通りを抜けると繁華街にでた。舗道を歩く人々のほとんどには連れがいて、職人や商人達が酒を飲んでいる。左を見ても右を見ても酒屋ばかりで、違いは立ち飲み屋かそうでないかぐらいだ。
どこもムーンドールでは見た事がない奇妙な鳥や魚の干物を売っていた。酔っ払いが銅貨で奇天烈な魚の干物と酒を買っている。意外と繁栄しているんだな。もっと原始的な生活を送っている国なのかと思った。
「あんまりキョロキョロしないで。注目を集めるでしょ」
「すいません」
どうやらシュナはいち早くここを立ち去りたいようで、先ほどから僕を置いてきぼりにするレベルで速足だ。このまま人ごみに紛れて逃げ出せそうな気もする。でもそれでは無一文で逃走生活を始めることになる。どうにかして彼女の水晶を盗み取れないものか。
その時僕の鼻を、食欲をそそる匂いがくすぐった。なんだろう。美味しそうなタレの匂いだ。
「あれはなんですか?」
「え?ああ、あれはアスランジャーキーよ」
「アスランジャーキー?」
「保存食よ。アタシもよく食べるの」
ん? なんか若干声色が変わったぞ。そっと彼女の顔を見上げるとその視線はがっつりアスランジャーキーへと向かっていた。いや違うな。その隣のお酒に釘付けになっている。
「パム酒と一緒に飲むととっても美味しいの。貴族の飲むワインなんかより百倍美味しいわ。特にデロスの麦芽から作られたパム酒はね―」
「へ~、この国にもワインがあるんですか」
「なんでそっちに食いつくのよッ。そんな貴族が好むヤツなんかより、パム酒よ。フェルゼーンはね北部はデロスのパム酒、南は米どころで有名だからミー酒って決まってるの」
「いや僕はまだ子供ですよ」
ジャーキーねぇ。いったい何の干し肉なんだろう。あまりにも興味深そうにじっと見つめていたからか、酒を飲んでいたおじさんが一切れ串に刺して分けてくれた。
美味しい。干し肉とは思えないくらいジューシーだ。厚く切った牛肉に黒胡椒をまぶしてよく天日干しにしたのだろう。味がとっても引き締まってる。それにこの付け合わせの甘辛いタレにつけるととっても美味しい。これを利用しよう。
「シュナ様。買って下さい」
「ダメ。いったでしょ、急いでるの」
「お願いします。僕ずっと牢屋の中にいて碌にご飯を食べていないんです。正直歩くのも、もうつらくて」
「しょうがないわね……食べたらさっさと行くわよ」
意外と優しい彼女を騙すのは少し気が引けたが、そうも言っていられない。ペコリと頭を下げながら僕は彼女の巾着袋から水晶を盗み取る算段をつける。
おそらくあの巾着袋の水晶はこの国の通貨ではない。少なくとも普段から使われるような品じゃない。なぜなら先ほど酔っ払いが店主に奇天烈な魚の干物を買うために、差し出していたのは銅貨だった。水晶じゃない。
ということは彼女が今からジャーキーを買う為に取り出すのは、硬貨が入っている財布のはず。
「すいませーん。アスランジャーキー二つ!」
「あいよー」
やっぱりだ。彼女は懐から別の袋を取り出した。袋の中から硬貨を取り出そうとしている。人間は何かに注目している時はそれ以外への注意が疎かになるはずだ。
僕は先ほど酔っ払いに貰った串と居酒屋に落ちていたもう一本の串を拾い上げて、ゆっくり近づく。彼女が手元でごそごそと小銭袋を漁り始めた。
そんな彼女の背後に近づいた僕は、腰に付いている巾着袋の口に素早く二本の串を差し込み左右に広げる。そのまま串で水晶を挟み素早く二個の水晶を掠め取った。
全部持っていくと重さでばれそうだ。二個が限界だろう。僕が買われた時に使われた赤い水晶と、価値は分からないが青い水晶だ。色を確認し即座に逃走する。
人ごみに紛れて、とにかく居酒屋から離れる。同時に自分の服を破り即席のターバンを作って頭を隠す。ここは異国な上に敵国だ。周りを見る限り、道行く人の頭髪の色は様々だけど白髪はいない。こんな目立つ髪色で逃げてたら直ぐ捕まる。
取り敢えず僕は人目のつかない路地の中に身を潜めた。髪を隠していてもここでじっとしているだけでは、見つかるのは時間の問題だろう。闇夜に乗じてここを離れなければ。
「最終目的地はムーンドールとしても、今日はどこに逃げるか。土地勘もないのにどうする」
「どうするって? それは大人しく連れてかれるのよ」
反射的に振り返ると、シュナの手がもう眼前まで迫っていた。捕まったら子供の力では、振りほどけそうにもない。逃げてもすぐ捕まるだろう。なら反撃しかない。
こちらへ伸びる手に向かって全力で掌拳を放つ。虚を突いたのか掌拳は彼女の中指に正面から入った。突き指の角度で入った一撃が相手の中指を見事に折った。
しばらく激痛で動けまい。今のうちにここから離れないと。
逃げ去ろうと背を向けた瞬間、女は眉一つ動かさずそのまま僕の右手を掴み取った。
「え!」
そんな骨が折れたのに動じてない!?
気づいたころには僕の右手は完全に捻り上げられそうになった。まずい。咄嗟に僕はさきほどの串を取り出し彼女の親指の付け根に突き刺した。串は深くえぐりこみ、患部から血が噴き出す。
だがそれでも彼女は眉一つ動かさず、無言で僕の腕を捻り上げる。さっきまでの彼女とまるで様子が違う。瞳には優しさも情けもない。
「グッ」
彼女のしなやかな腕からは考えられないくらいの力が僕の腕をキリキリと締め上げた。駄目だ。振りほどけない。縛り上げられ、手を外側に捻られる。関節を決められた。このまま地面に引き倒されたら終わりだ。
僕は残った二本目の串を彼女の目に向けて投げる。死角からの不意を突いた一撃。しかしそれすらも彼女は驚異的な反射神経で、左腕でつかみ取った。そこからは一瞬だった。あっという間に地面に倒され、片腕を捻り上げられながら背中を膝で押さえつけられた。
「大人しくしなさい。どうしてそんなに逃げようとするの?」
「敵国の人間には協力しない。故郷に帰る」
関節をきめられている。脂汗が出るほどの激痛の中、僕は必至に活路を探した。完全に力が違う。十六歳の自分ならともかく子供の僕では、ここから巻き返すのは不可能だ。なら交渉か?
いや、彼女の目的は最初から僕自身だ。厳密には僕のムーンドールに関する知識とムーンドール語の習得。要求物が僕の頭の中にある以上、交渉は成り立たない。逃げられない。どうする。
「ここまで締め上げてまだ諦めてないのは大したものだけど……少し寝てもらうわ」
くそッ。どうする。このままじゃ。焦る僕の目の前に血が数滴垂れていた。串が刺さった彼女の腕からでた血だ。血?
咄嗟に意識を集中し瞑想する。自分でやっておいて、ありえない気配を感じた。そんな馬鹿な。霊気を感じるぞ。彼女の血液の中だけじゃない。そこら中で霊気が感じられる。
ムーンドールではどんなにやっても感じられなかったそれが、はっきりと空気中に溶け込んでいるのが分かった。これしかない。僕は自分と彼女の間の空気に集中し、霊気を掌握する。急に体の力を緩め脱力した僕にシュナが怪訝そうに眉を顰める。
「急に静かにして、どうするつもり?」
「……フレイ」
「え? まさか―」
火炎が迸った。同時に僕の腕が解放された。背後の炎で視界が明るくなり背中が熱される。威力を見誤った。想像より大きい炎で背中が若干火傷した。でも止まっている暇は無い。
僕は振り返らずに駆け出した。後ろを振り返っている暇は無い。かなりの手傷は与えたはずだ。そう考えた刹那、僕の背中に強い衝撃が走った。背後から蹴り飛ばされたのだ。
もんどりを打って道端に倒れた。先ほどまで関節を決められていた腕で受け身を取ってしまったため、体中に目が覚めるような痛みが走る。だがそれを無視して僕は顔を上げた。
黒く艶やかな髪をなびかせて、悠然と彼女は立っていた。暗い路地でその女は異様な存在感を放っていた。
「そんな……なんで傷一つ受けてないんだ?」
「質問するのコッチよ。なんであんたが呪術を使えるの」
あの距離で火炎を防ぐ手段はなかったはず……いや、ひとつある。そんなまさか。そこまで考えが至った時、シュナが自らの左手を出血している右手にかざした。
「ルーメン」
そう彼女が呟いたとたん、淡い光が傷を癒した。串によって空いた穴がみるみる塞がり流血が止まってゆく。
「呪術……」
「アンタ。ただの奴隷じゃないわね。連れていく」
「僕はここで捕まるわけにはいかない」
頭の中で必死に呪術の記憶を引っ張り出す。伊達に毎晩、呪術の書を漁っていたわけでは無い。いくつかの呪術は僕の頭の中にある。
“フレイヤ”
フレイの上位互換にして、人間なら丸ごと呑み込める火球を放つ呪術だ。これが僕に出せる最大火力。これでどこまで行けるか分からないけど、やるしかない!
全神経を集中させる。目を閉じあたりの空気に溶け込む霊気を掌握する。駄目だ。全然足りない。もっと広い範囲の霊気を掴まないと。今まででやったことも無いほど膨大な情報量が僕の脳を沸騰させようとする。右を向きながら左を向くような厳しい作業に脳が悲鳴を上げる。でもここで止める訳にはいかない。
「その年で霊気をここまで制御するのは見事だわ……でもね、そんな強引なやり方じゃあ霊気は応えてくれない。霊気とは流れる水の如く、上から下へと流れるもの。年季の差……見せてあげる」
シュナが右手を目の前にかざした。
「……エル・ルフト」
そう彼女が呟いた瞬間、僕は掌握したと思っていた霊気が霧散していくのを感じた。まるで手で掬った水が指の隙間から流れていくようだ。漏れ出た霊気が彼女へと集まっていく。その感覚は水が高い所から低い所へと流れていくように、とても自然な流れに感じられた。
みるみる霊気は実体を持ち、緑の風が巻き上がる。
轟々と吹き荒れる暴風が砂塵を巻き上げては路地裏の壁に叩きつける。まるで竜巻だ。あまりの風圧に目が開けられない。
「諦めなさい」
冷徹な宣告が下される。彼女の言う通り、もはや対抗するための霊気は空気中のどこにも無かった。正直に言ってもうどうしようもない。
だからどうした。
僕はとっくに諦める事を捨てた。僕には背負っているものがある。空気中に無いのなら、別の所から探せばいいだけのこと。僕の脳裏に闘技場でのことが蘇った。あの時は魔獣の血に霊気が宿っていた。なら僕の血の中にも霊気はあるはず。
躊躇なく僕は自分の親指に噛みついた。ゴリッと骨の削れる音も無視して、一息に肉を噛み千切る。剥き出しになった肉と共に血がドクドクと溢れ出した。これなら、行ける。
「まさか!?」
「フレイヤ!」
もうすっかり夜も更けたフェルゼーンの旧市街。誰もいない路地から獄炎が噴き出した。
*
シュナは振り抜いた槍をクルクルと回して背に担いだ。フレイヤを薙ぎ払う際に少し焦げてしまった外套をポンポンと手ではたく。思わずため息が出るのを彼女は我慢できなかった。
「はぁ~。とんでもないの拾っちゃたわぁ」
完全に気絶している少年を呪術で癒しながら、大きなクレーターの中でシュナはぼやいた。彼女の眼前にはかつての路地裏は跡形も無く、地面は爆発の衝撃で完全に吹き飛び、路地裏を構成していた石造りの建物は火球によって球状に溶け落ちていた。
「これをこんなチビっ子がね……」
ムーンドール人のはずなのに、呪術が使える子供。まさに異常事態だった。でも最も不可解なのは自分の血を使って呪術を行使したこと。普通ちょっと指をちぎった程度で流れる血じゃあ、あの規模の呪術を行使するのは絶対に不可能なはず。
たかが人間のしかも子供程度が持つ霊気は絶対にできない。それこそ魔獣クラスに歪んだ血でもなければ……だけどこの子はそれをやってのけて見せた。全てがチグハグ。いったいこのチビっ子は何者……
「まあいいわ」
めんどくさがりやのシュナは考えるのを放棄した。そのまま気絶したリオンをひょいと肩に担ぎ、自分の隠れ家へと帰っていった。
翌朝飲んだくれて帰ってきた路地裏の住人が目撃したのは、無残な姿となった我が家と二粒の水晶玉だった。