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第六章 最終局面

 サーレマー島の沖合三十キロに浮かぶ小島。名前もない岩礁のような島に、タムの私邸はあった。


 十九世紀の帝政ロシア時代に建てられた要塞を改築した建物は、まるで古代バイキングの要塞のような威容を誇っていた。バルト海特有の花崗岩で作られた石造りの重厚な建物が、荒波に向かって聳え立っている。


 十一月の夜、バルト海は嵐だった。波高は五メートルを超え、風速は毎秒二十メートル。小型ボートでの上陸は自殺行為に等しかった。だが私は意を決して島に向かった。


 タムは大ホールで私を待っていた。暖炉の火が彼の顔を赤く染めている。六十歳を過ぎても、その体格は海の男らしく堂々としていた。彼は玉座のような椅子に座り、チェス盤を前にしていた。


 ホールの壁には、世界中から集めた美術品が飾られていた。レンブラント、フェルメール、カラヴァッジオ——数百億ユーロ相当のコレクション。だがその中に、一枚だけ異質な絵があった。素人が描いたような、稚拙な女性の肖像画。


 それはエレンの絵だった。タム自身が描いた、恋人の肖像。


 「チェックメイトだ、カタリーナ」


 彼は言った。その声には帝王の威厳があったが、同時に深い疲れも感じられた。


 「君の負けだ」


 「いいえ」


 私は静かに答えた。風が窓を叩き、古い建物がきしんでいる。嵐は激しさを増していた。


 「まだよ」


 私は彼に一枚の古い写真を突きつけた。大学時代の、タムとエレンが写った写真。


 「あなたはエレンを愛していた」


 私は言った。


 「だが彼女はあなたを選ばなかった。ラウルの父親を選んだ。あなたのラウルへの憎しみは嫉妬から始まったのよ」


 彼の顔が初めて歪んだ。そこには海運王の顔ではなく、ただの傷ついた老人の顔があった。四十年間抱え続けてきた痛みが、一瞬で表面に現れた。


 「そしてあなたは私をも愛してしまったのよ。エレンの面影を持つ私をね」


 これが私の最後の切り札だった。彼が私を殺さなかった理由。彼がこの回りくどいゲームを続けた理由。彼は私を憎みながら、同時に私を欲していたのだ。


 「君が初めて会社に現れた日」彼は低い声で呟いた。「私は幽霊を見たかと思った。エレンが四十年の時を超えて戻ってきたのかと」


 彼は立ち上がり、エレンの肖像画に歩み寄った。


 「君の横顔、髪をかき上げる仕草、そして海について話す時の眼差し——全てが彼女だった。調べてみると、君たちは血縁関係にあった。ヴァサラ家の血が、時を超えて同じ美を生み出していたのだ」


 「君は」彼は低い声で呟いた。「君は彼女に似ている。歩き方、微笑み方、そして愛する人のために全てを犠牲にする覚悟まで」


 彼は立ち上がり、エレンの肖像画に歩み寄った。


 「私は彼女を愛していた。心の底から。だが彼女は私の野心を恐れていた。『あなたは海そのものになりたがっている』と言われた。『でも海は誰のものでもない』と」


 彼の指がエレンの肖像画の頬を撫でた。


 「君もエレンと同じことを言った。海洋汚染について議論した時に。同じ価値観、同じ優しさ、同じ強さ。私は君を通してエレンとの対話を続けていたのかもしれない」


 その時、豪邸に警報が鳴り響いた。私がここに来る前に、エストニア警察とインターポールに匿名通報を入れておいたのだ。タムの全ての不正の証拠と共に。彼の居場所も含めて。


 「私の勝ちよ、アレクサンデル」


 「そうかもしれんな」


 彼は呟いた。そして隠し持っていた銃を自分のこめかみに当てた。


 「だがこのゲームのエンディングは私が決める」


 「待って」私は叫んだ。「あなたの息子のことを考えて」


 「アルトゥール」彼の顔に一瞬優しさが戻った。「彼はもう私の息子ではない。君が壊してしまった」


 その言葉は私の心を貫いた。私は復讐のために、何もかもを破壊してしまった。


 銃声。


 海運王は静かに崩れ落ちた。まるで古い帆船が最後の航海を終えるように。血が花崗岩の床に広がり、暖炉の火が照らし出している。


 嵐の音だけが、ホールに響いていた。


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