第4話 同伴喫茶!? その①
「以前からあったか? ここ」
黒岩に誘われて歩がついて行った場所は、書店から歩いて10分ほどの所にあるレトロな雰囲気の喫茶店だった。フランス語で書かれた店名は『グランテカール』。意味は歩にはわからなかったが、黒岩は少し唇の端を上げて苦笑していた。その様子からして、歩は何となく卑猥な含みを感じ取った。
海の底を思わせるような仄暗い店内には、心地良い音量のBGMが流れていた。70年代から80年代にかけてヒットした洋楽のようだ。席は全て背もたれの高いボックス型になっている。所々に、アレカヤシやベンジャミンといった大振りの観葉植物が視線を遮るように配置され、ムーディな個室感を演出していた。
店内の客たちは皆カップルだ。仲良く隣り合って座り、身体を寄り添わせている。席はほとんど埋まり、昼間からなかなかの盛況ぶりである。
歩と黒岩はさすがに隣にではなく、向かい合って座ることにした。
「最近できたんだ。古き良き70年代の懐古趣味とかいうものらしい。珍しいだろ」
「半世紀くらい前の、親が生まれた年代か」
「一度入ってみたかったんだけど、一人で入る勇気がなくてさ。俺、野球ばっかやってて、今までの人生でカフェとか入ったことなかったから」
「俺もないよ。だからって、ここ……人生初のカフェにしては敷居が高過ぎるっていうか、純喫茶じゃない感じがするんだけど」
「敷居が高過ぎる、か。それって、初体験の相手がAV女優、みたいな感じかな?」
「うっ、AV女優……」
歩にとって、その言葉はもはやトラウマでしかない。
「AV女優が、どうかしたか?」
「いや、何でもない! ってか、ここって、男同士で入る所でもなさそうだぞ」
場違いな空間に迷い込んでしまったのかもしれないと、歩は少し焦りを覚えた。
「男同士だろうが女同士だろうが、仲良しだったら別にいいじゃん。それとも、おまえ、そういうの拘る方?」
「……まあ、そうだな。今どき拘る方が遅れてるかもな。黒岩、意外と先駆者だな」
時代は変わったということなのだろう。70年代、同伴喫茶に同性同士の恋人たちの姿はあったのだろうか? 懐古趣味のノスタルジックな雰囲気に感化され、歩はふと想いを馳せた。
21世紀も四半世紀が過ぎた現代、自分の恋は、半分はもう悩まなくてもいいものと言えるかもしれない。初恋の相手は、同性。さらに、友人の恋人。この『同性』という部分のネックは、時代の潮流に押し流されて過去の遺物となっていく運命にあるのだろう。
新しい時代に人類は歓びに満ちて声高に叫ぶ。もう、同性を愛することに躊躇しなくてもいい。誰も、そのことで悩まなくていい。誰からも睥睨などされない。人は自由に恋愛を謳歌していいのだと。
しかし、『友人の恋人』というネックは別次元の代物だ。半分どころか大部分を占める悩ましさでもある。横恋慕は人としての倫理に悖る。
「それに、歩はどう見ても女子だから、なおさら大丈夫じゃね?」
「あのな、俺を女子みたいに言うのやめろ」
『どう見ても女子』そして先ほどの『マドンナ的な』や『花嫁修業』という言葉が、ボディブローのような鈍い痛みを蓄積させる。黒岩は軽い気持ちで言っているのだろうが、言われる側は愉快ではない。歩は自分の外見にコンプレックスを抱いている。街を歩けば、時折り同性から声をかけられる。自分は男だと言うと、それが事実か否か確かめたいと言われる。あまつさえ、それでもいいと言われたりもする。いっそ本当に女性だったら、それなりに楽しめたりするのだろうか。
「ごめん。でも、小さくて可愛いままで……いや、ますます綺麗になってて……さっき、おまえを見かけた時、ちょっとドキッとした」
照れたように視線を逸らして黒岩は言った。
「いい加減にしろよ」
歩は黒岩を睨みつけた。実際、可愛いだの綺麗だの言われることにうんざりしていた。
「おまえを見慣れてる俺でさえそうだから、他の男はもっと……さっき本屋でな、おまえを狙ってるヘンタイ野郎がいたんだ。根暗な感じの中年だった。上から下まで舐めるようにガン見して、近づいて行こうとしてたんだ」
そう聞かされ、ゾワリと神経を逆撫でされるような嫌忌感に寒気がした。同性から邪な眼で見られることに馴れるはずもない。黒岩が声をかけてくれたのは、そういうタイミングだったのだと歩は理解した。
「黒岩、俺を助けてくれたんだな。ありがとう」
もしも彼がいなければ、どうなっていたかなど考えたくもなかった。しかし、未遂といえども痴漢への憤りは収まらない。
「こんな胸のない女がいるかよ。そいつ、相当勘違いしてるな!」
「胸のない女子は珍しくないが、おまえの場合はそれを補って余りあるくらい可愛いんだ。なのに無防備だからいけないんだよ」
「じゃあ武装しろってのかよ!」
歩は再び黒岩を睨んだ。
「ほら、その顔、可愛いんだから。ったく」
やれやれといった様子で黒岩はくすっと笑った。
「じゃあ、どんな顔すりゃいいんだよ」
「おまえはいつも笑ってろ」
「怒ってるのに笑えるか! 黒岩、頭いいのにバカだな」
「怒るなって」
真っ直ぐな視線を向けながら、黒岩は真剣な口調で訊いてきた。
「ところで、おまえ、向こうでは困った時、頼りになる人とかいるのか?」
「頼りにしている人は……いないこともない」
訊かれてすぐに、歩は真田理仁亜の顔を思い浮かべた。そして同時に、彼の背後に佇み、咎めるような目で睨みつける桐島颯也の顔も。
「その人は、もしかして、桐島?」
「……違う」
黒岩の口からその名前を聞いて、歩はドキリとした。当たらずといえども遠からずだ。頼りに思っているのは、その桐島颯也の恋人、真田理仁亜だ。頼りにしているだけでなく、恋心を抱いている。しかし、それは許されない恋。決して成就しない恋だ。
「同じ大学だったよな、桐島と」
「俺が頼りにしているのは桐島くんじゃないよ。彼には恋人がいるし、そもそも俺なんか眼中にないよ」
「意外だ。あの桐島に恋人がいるのも意外だけど、何より、おまえを眼中にないってのがな」
「そうかな。それが普通だろ」
「いや、あいつは何だか普通じゃなかった」
「まあ、ちょっと変わってるかも……」
本当はちょっとどころではない。桐島颯也はあらゆる意味で常軌を逸している。だが、そのことを黒岩に説明するのも面倒だった。それに、取り立てて黒岩が彼に関心があるというふうでもなかった。そう思って、歩は桐島颯也に関する言及を止めた。
「……高校の時、三年になってクラスが違って」
ゆっくりと黒岩が続けた。
「俺、毎日おまえのクラスに行ってただろ」
「そう言えば、休み時間の度に来てたな」
黒岩は休み時間になると決まって歩の教室を訪れ、いつも楽しげに野球部の仲間とじゃれ合っていた。それを目にする一部の女子たちが妙に盛り上がっていたのを歩は憶えている。
「本当は、おまえを見に行ってたんだ」
「俺を? わざわざ他所のクラスに出張してまで見るほどのものかよ」
笑いかけて、そう言えばと歩は思い返した。たまに視線を感じて振り返ると、必ずと言っていいほど黒岩と目が合った。すると彼は『よッ』と片手を挙げ、白い歯をニカッと覗かせて微笑む。歩も同じ仕草で返す。それは、ありきたりな日常のワンシーンだった。
「だって、可愛いから」
「それ、やめろって。どこに可愛いとか言われて喜ぶ男がいるんだよ。屈辱だろ。俺を怒らせたいの?」
「ごめん」
「他に見るもんないのかよ」
歩は呆れたと言わんばかりのため息をついてみせた。
「おまえと同じ大学に行きたくて本気になって勉強したら、たまたま受かって……親は喜んだけど、俺は歩の姿が見れなくなって、毎日がつまらない」
伏し目がちになりながら、消沈したように黒岩はそう言った。
部活をしながらも少し本気を出せば楽に国立大学に合格してしまう黒岩のことが、歩には羨まし過ぎた。そればかりか、スポーツマンで高身長、男らしい顔立ち。歩が逆立ちしても手に入らないスペックを当然のように備えている。
なのに、それほどまでに恵まれた彼の毎日がつまらないとは! 歩は急に腹立たしくなった。
「俺、地元の国立、落ちたくて落ちたわけじゃないんだけどな。それに、俺がいないから毎日がつまらないって何だよ! 他人の為所にするな!」
「お……ぉ」
歩の怒気に呑まれたかのように唖然とした表情で黒岩は固まった。
「お待たせしました~」
マスターと思しき和やかな佇まいの初老の男性が注文の飲み物を運んで来た。
「コーラフロートとアイスコーヒーです。ごゆっくりどうぞ~」




