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第3話 元野球部の男

「……黒岩」


 歩に声をかけてきたのは、高校の同級生、黒岩(くろいわ)健斗(けんと)だった。三年生の時はクラスは違ったが、一二年では同じクラスで、二年の修学旅行では歩と同じ布団で寝たがっていた輩の一人だ。野球部員だった当時は丸刈り頭に浅黒い肌といった典型的な体育会系男子だった。朴訥で、見かけは少し怖い印象があった。しかし、根は気さくで優しいことを歩は知っている。


「久しぶり。帰って来てたんだな、歩」


 桐島颯也以外の同級生は皆、『歩』と下の名前で呼ぶ。黒岩もそうだ。

 白い歯を見せて快活に話しかけてきた彼は、今ではすっかり見た目が変わっていた。坊主頭には髪が伸び、浅黒かった肌は本来の色を取り戻したのか、淡い小麦色に落ち着いていた。朴訥さも消え、話し易そうな柔らかな雰囲気が備わり、もう高校球児だった面影はない。


「昨日帰って来たばかりだ。久しぶりだな。元気だったか?」


 歩も笑顔で返した。黒岩の変貌ぶりに、一瞬、拍動が高鳴るのを感じた。少し見ないうちに大人っぽく進化している同級生に羨望を覚えた。

 伊織といい、この黒岩といい。『男子三日会わざれば刮目して見よ』そんな慣用句が歩の頭に浮かんだ。


「俺は、まぁ、元気だ」

「黒岩、大学では野球やってないのか?」

「うん、終わった、って感じかな。去年、県大会で負けて、引退してそれっきり。結局、甲子園は夢のまた夢だった」


 黒岩は一年生の頃から不動のレギュラーとして活躍していた。ポジションは右翼手(ライト)で打順は五番。俊足で強肩強打の走攻守三拍子揃った申し分のない選手だった。しかし、それでも甲子園は遥か夢の彼方にあった。ほとんどの高校球児がそうであるように。彼もまた。


「あれから、もう一年が経つんだな。でも、俺は昨日のことのように憶えてるよ。準決勝まで勝ち進んだのに本当に惜しかった。おまえのガッツには胸がジーンとしたよ」


 勝敗が決まった最後のシーンが歩の脳裡に鮮明に甦る。

 9回裏、二死(ツーアウト)走者(ランナー)無し。打席には黒岩。彼は初球に手を出し、その打球は内野に転がる。相手の遊撃手(ショート)はゴロを巧く処理し、矢のような送球を一塁へ。黒岩の全力疾走とヘッドスライディングも虚しく、塁審から無情にもコールされる『アウト!』

 黒岩は突っ伏したまま地面を叩いた。

 高校野球ではよく見るシーンだ。勝敗の非情さを突きつけられ、切なさが胸に迫る。歩は目の前で見た身近な人間のそのプレーに、いっそう無念さが身につまされた。


「定番だな。タイミング的に完全にアウトってわかってるのに。でも、もしかしたら相手がエラーするかもしれないっていう可能性も捨てきれないし……それだけじゃないんだけど、あの全力疾走は。まさか、それを自分がやるなんてな」

「県ベスト4はすごいよ。もっと胸張っていいんじゃないか?」

「そう言ってくれてサンキューな。歩に言われると嬉しいよ。俺たち部員全員、スタンドにおまえを見つけるとテンションが上がったもんだよ」

「俺なんかで上がるテンションって、どんなだよ」

「マドンナ的な」

「違うだろ、それ」


 歩は苦笑いした。華やかなチアリーダーを差し置いて、地味な男子学生の自分がマドンナとは? リップサービスのつもりか。


「あ~ぁ、それにしても、あっという間だったな、野球漬けの高校三年間なんて」

「黒岩には甲子園っていうはっきりした目標があったから、そう思えるんだろうな。その意味では、俺はおまえが羨ましかったよ」


 甲子園出場の目標を持ち、好きな野球に打ち込んだ黒岩の高校生活は充実していただろう。歩は帰宅組だったが、野球部の公式戦には時間が許す限り応援に行った。同じクラスに野球部員が多かったというのも理由だ。クラスメイトとして応援したいというシンプルな動機だった。

 ただ、伸び伸びと元気いっぱいにプレーする彼らを見ていると、羨ましさも覚えたのだった。


「俺は歩が羨ましい」


 そう言うと、黒岩は拗ねたような顔をした。


「どうして?」


「だって、一人暮らしじゃん。自由気ままだろ。俺、そういうのに憧れてんだよね。でも、幸か不幸か、こっちの大学に受かっちゃって実家暮らしなわけで。もうガキじゃないのに親が相変わらずうるさいんだ」

 愚痴を(こぼ)しながら、黒岩は先ほど歩が手を伸ばしかけていた上段の学術書を取った。

「マーケティング……確か、経済学部だったな」


 黒岩は歩の専攻を憶えていたようだ。


「あ、うん。ありがとう」


 書籍を受け取り、パラパラとページを捲る。教授が推す学説と同じ観点で書かれたものであることが第一だ。この本なら大丈夫そうだと、歩は購入を決めた。


 それにしても、と羨望と憧憬の混じった眼差しで歩は改めて黒岩を見た。自分が精いっぱい背伸びをしないと届かない所でも、190cm近い長身の黒岩は軽々と届くのだ。


「勉強家だな。真面目か」

「俺は必死なんだよ、いろいろとな。……黒岩、俺に言わせれば、おまえは贅沢だ。国立受かって実家暮らし。それって理想だよ。実際、一人暮らしなんて、それほど楽しいものでもないし」


 成績は歩と同じくらいだった黒岩は地元の国立大学に合格した。真田理仁亜が卒業した大学だ。歩はそこを落ち、可愛い弟妹たちとも別れ、遠隔地の私立大学に通う身だ。実家を離れて寂しい一人暮らしを余儀なくされている歩にしてみれば、黒岩は贅沢極まりない身分に映るのだった。


「じゃあ、それほど楽しいものでもない歩の一人暮らしっての、どんなのか聞かせろよ」

「そんなの聞いてどうするんだよ。掃除、洗濯、食事の用意、それからゴミ出し……あ、その前に分別な。これがけっこう面倒なわけ。そういうの全部やんなきゃいけないんだぞ。一人暮らしの現実はかなりシビアなんだ。だからって学業は疎かにできないし、バイトだってあるし」

「あははっ、まるで修行だな。家事やんなきゃいけないとか。いい花嫁修業だ」

「誰が花嫁だ。黒岩、頭いいのにバカだな」


 洒落にもならない軽口を叩く黒岩の腹を歩は拳で小突いた。


「……歩、今、時間ある?」


 歩の拳を大きな掌に包み込みながら、黒岩が訊いた。

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