第17話 しばしのお別れ
長かった夏休みも残すところ数日となり、歩は学問の地へ戻る算段を始めた。
「後ろ髪を引かれるって、こういうことかな」
幼い弟妹たちと黒岩の惜別の念。それが歩自身の思いと呼応して、幾層もの離れ難い慕情が重ねられる。
『ずっと、ここにいて』
『ずっと、ここにいたい』
『いつまでも一緒にいて』
『いつまでも一緒にいたい』
* * *
出発のその日。
黒岩と伊織と梨花が駅まで見送りに来た。
「ニィニィ、いってらっしゃい」
消え入りそうな声でしょんぼりと梨花が言った。前の晩、長兄との暫しの別れが寂しくて泣いていた。
『いってらっしゃい』と言って送り出してあげなさい、と母に宥められた。
「梨花、いい子にしてるんだぞ。がんばって大きくなぁれ」
祈りにも似た声かけ。それは愛おしい妹への歩の想いだった。梨花の目の高さまでしゃがんで頭を優しく撫でた。くるんとカールした毛先のツインテールとふっくらしたほっぺが愛くるしい。次に会う時はさらに可愛らしくなっているだろう。
「あい」
返事をした梨花の目に、今にも零れそうな涙が溜まっていた。
「お兄ちゃん、いってらっしゃい」
黒岩の前では頑なに『歩くん』と呼んでいた伊織が、普段通りに兄を呼んだ。対抗心よりも別れを惜しむ気持ちが勝るのか。
「伊織、しっかり勉強しろよ。バスケ上手くなれ」
「はい!」
必死で涙を堪える伊織がいじらしかった。黒目がちの瞳が潤んで煌めき、じっと兄を見つめていた。
額にかかる弟の前髪をそっと払って、歩は見つめ返した。意志の強さが窺える双眸の輝き。整ったマスク。良かった、自分に似なくて。歩は改めて安堵した。精悍な顔立ちの男に成長しそうだ。黒岩のような。
「冬、待ってるから。クリスマス! 一緒に過ごそうな、歩」
そう言った黒岩の目にも涙が溢れていた。こちらも、瞬きひとつで零れ落ちそうなほどだ。
「ははっ、クリスマス一緒に過ごす彼女作れよ」
黒岩の幸せを望む気持ちは変わらない。自分と共にある幸せであれ、新たな出逢いによるものであれ、彼が幸せならそれでいい。ひたすら、黒岩を大事に思う。
「俺はおまえ以外には考えられない。あの合宿のこと、忘れない。ううっ……歩」
ついに黒岩の眼が決壊した。大粒の涙が溢れて頬を伝い落ちた。
「黒岩、泣くなよ。もう高校球児じゃないだろ」
「うぐっ、歩、行くなよ!」
「うわ~ん、ニィニィ行っちゃヤダ!」
「お兄ちゃ~ん、ボクも一緒に行く!」
梨花と伊織も堰を切ったように泣きだして、収拾がつかなくなった。
「あらぁ、門出に涙は禁物よ」
そこへ、黒岩の母・彩が現われた。
「あゆゥ」
突然、彩の肩越しから、ぬうっと変な顔が覗いた。
「うわぁ!」
歩は心臓が飛び出しそうなほど驚いた。
よく見ると、それは温泉旅館の売店でお土産として買った呪いの仮面だった。着けていたのは、もちろん黒岩の父・真吾に他ならない。
「何やってんだよ、親父」という息子のツッコみに、「ひでぶっ! あべしっ!」と意味不明の言葉を発して煙に巻いていた。
そうこうするうちに列車がホームに入って来た。
「歩! 歩っ! また……」
客が乗降し、発車のベルが鳴り響いた。
「うん、またな、黒岩。伊織、梨花、そして、……パ、パパ、ママ、お見送り、ありがとうございました」
歩は列車に乗り込みながら笑顔で皆に暫しの別れを告げた。
「歩! おまえが好き! 離れていても、ずっと好きだから!」
「俺も。俺も好き……!」
歩が車中の人となり、ドアが閉まった。
ゆっくりと列車が動き始めた。
追いかける黒岩と小さな弟妹を窓越しに見る。暫くの間会えなくなる愛おしい者たち。その姿を網膜に留めようと、歩は窓に貼り付いた。
「歩っ‼」
もう声は届いて来なかった。だが、黒岩の口がそう動いているのが歩には見て取れた。
黒岩が梨花を抱き上げ、伊織の手を取って、列車を追いかけて走り出した。
「ニィニィ!」
「お兄ちゃん!」
小さな弟妹たちが泣きながら口々に叫んでいた。
無情にも列車が速度を上げる。
三人の姿が小さくなっていく。
「梨花、伊織! 黒岩……!」
プラットホームの端に佇むシルエットが遠ざかる。
やがて見えなくなった。
いつしか歩も涙ぐんでいた。
列車の振動に揺れる身体。黒岩の一途な想いに揺れる心。同調する身体と心の行き着く先は……。
「どうしたんだろう……俺、たまらなく、切ない」




