第16話 夏の終わりの怪異
「ありがとう……歩」
「俺も……ありがとう、健斗」
「健斗、って……?」
「黒岩、頭いいのにバカだな。自分の名前も忘れたのか」
「もう一回、呼んで」
「健斗」
「嬉しい」
「俺も、なんだか嬉しい」
* * *
「忘れ物はないかな?」
黒岩が部屋を見回した。
二泊三日の『合宿』が終わった。
歩と黒岩は帰り支度を済ませ、退室するところだった。
「あっ、アヒル隊長! すっかり忘れてた。どこ行ったっけ?」
一日目こそ少しだけ存在感を示したアヒル隊長は、その後、顧みられることもなかった。
「外かもしれない。俺、見て来る」
黒岩がデッキに出て湯舟の周りを捜すも、早々に手ぶらで戻って来た。
「なかった」
「どうしよう」
幼い弟妹からの借り物だ。一緒に行けない自分たちの代わりにと託された、謂わば伊織と梨花の分身のようなものである。持ち帰らないわけにはいかない。
念のため、歩はもう一度バッグを探った。
「あった……!」
バッグの底に、二体のアヒル隊長が鎮座していた。怒っているような困っているような、何とも言えない表情で歩を見上げていた。
「あったのか。よかったな。バッグに入れたの忘れてたんだろ」
「いや、俺は入れた憶えがない」
初日以降、歩にはアヒル隊長に触った記憶がなかった。今の今まで、その存在を失念していた。
歩と黒岩は訝しげに顔を見合わせた。
「「 まさか……な 」」
ふたりの脳裡を過ったのは、一所懸命に自力でバッグの中に潜り込む二体のアヒル隊長の姿だった。
* * *
地元に帰り着いた頃は陽も暮れ、西の空に宵の明星が輝いていた。歩は黒岩を家まで送った。彼の両親・真吾と彩にお礼を言い、土産物を渡す目的もあったからだ。
「ふたりとも、おかえりなさい。温泉、どうだった?」
玄関先で笑顔の彩が出迎えた。
歩は家へ上がるよう促されたが、長居をするつもりはなかったので丁寧に遠慮した。
「とても良かったです。おかげさまでリフレッシュできました。ありがとうございました。それから、これはつまらないものですが」
歩は礼を述べ、夫妻への土産の品を取り出した。
「まあ、歩さんったら。そんなに気を遣うことなかったのに。あっ、ちょっと待って。パパを呼ぶわね」
彩が家の奥に向かって声をかけた。
「パパ~! 何してるのォ。早く来なさ~い」
「は、はぁ~い!」
その返事はトイレと思しき所から聞こえてきた。
いつも間の悪い人間はいるものだ。真吾がそうだった。
「やだっ、パパったら。〇ンコしているのかしら」
彩が笑いをこらえながら呟いた。
そうこうしているうちに慎吾がトイレから出て来た。
「あゆゥ、おかえりなさい。あっ、ついでに健斗もおかえり」
「息子の俺は『ついで』かよ! 手ェ洗ったのか?」
「そんなヒマはない」
「汚ったねぇなぁ」
「ただいま帰りました。おふたりに、これを」
歩は慎吾と彩にそれぞれ土産物を手渡した。
旅館に着いたその日のうちに売店でじっくり吟味したものである。彩には手触りの良いガーゼの草木染のストール。綺麗な発色が色白の彼女の首元に映えそうだと想像しながら歩が選んだものだった。
「まあっ、綺麗! ありがとう、歩さん。センスいいのね。嬉しい。さっそく明日からこれを巻いて出勤するわ。お洋服はどれが似合うかしらねぇ。うふふっ、今から楽しみだわ」
彩は気に入ってくれたようだった。ストールに頬ずりしながら柔らかな肌触りを楽しんでいる。
そして、真吾には、仮面。温泉地とは全く縁もゆかりもない、南の島の土着信仰的な呪いの仮面だった。それは禍々しい妖気を放ち、見る者の怖気を誘った。
「うわっ、キモ……さ、さっそく明日からこれを着けて……って、ううっ、いくらなんでも、これは無理っ!」
真吾は緊張の面持ちでおそるおそる仮面を手にしながら、そう言って顔を背けた。正直な反応である。彼は呪いの仮面の恐ろしげな形相に慄き、涙目になっていた。気に入ってもらえなかったことは明らかだ。それどころか、消沈し、落胆している。
それを見て、歩は慎吾が気の毒になった。
そんな夫を元気づけようとしたのか、彩が言った。
「あらぁ、まさに面妖だわ。面だけに。でも、逆に素敵よ。逆にね。パパ、着けて行きなさいよ。せっかく歩さんが買って来てくれたのよ。きっと会社でウケるわよ。ある意味で」
「そうだぞ、親父。贅沢言うんじゃない。無理とか言うな。親父へのお土産選びに歩が悩んでいたから俺が助言したんだ。これがいい、って」
「おまえのシュミだったのか!」
今にも父子げんかが勃発しそうな気配だ。
そもそも南の島の呪いの仮面が温泉旅館の売店にあること自体がミスマッチだった。いったい、どういう経路でたどり着いたのか、極めて謎である。歩は思ったものだ。これを置くくらいなら、アヒル隊長の方がまだマシなのではないかと。
彩への贈り物はすぐに決まったが、真吾へは何が良いかと迷っていると、黒岩からこの仮面を勧められた。さすがにこれはないと一蹴したが、『絶対、これがいい』と黒岩は譲らなかった。それで、仕方なく歩は折れた。父親の好みを知った上で勧めてくれるのだろうと理解し、不本意ながらもこの呪いの仮面に決めた。甚だ変わった好みだとも思ったが、最終的に黒岩を信じたのだ。
しかし、その結果やはりと言うべきか当然と言うべきか、こんな悍ましい変な仮面をもらったところで嬉しいはずもない。
否、もしかしたら! と歩は閃いた。既にその時から呪いの仮面は不思議な力を発揮していたのかもしれないと。黒岩はその妖力に操られるままに強く勧めたのではないだろうか。そして、呪いの仮面はさらに妖力をアヒル隊長にも及ぼし……。
歩はぞっとして思わず黒岩の腕を掴んだ。
「おっ、何だ? 歩」
「あ、ごめん。もう、そろそろお暇しないと……」
とっさにそう言って誤魔化した。
「じゃ、俺、歩送って行くから」
黒岩は頃合とばかりに慎吾との睨み合いを切り上げた。
「あっ、そうだ! 健斗、アヒル隊長は?」
真吾が息子を引き留めた。
「ああ、これね。わりと役に立ったよ」
黒岩がズボンのポケットからアヒル隊長を引っ張り出した。
真吾から預かったアヒル隊長は、確かに真に必要とする人の役に立った。世紀末的兄弟が律儀にもプロテインを添えて返してくれたアヒル隊長。そのつぶらな瞳に映ったものは、果たして何だったのか?
「役に立ったか。そうかそうか。そうだろうそうだろう。うひゃひゃ」
息子からアヒル隊長を受け取ると、真吾は急に機嫌が直り、二枚目の顔が残念な感じにニヤけた。
「それでは失礼します」
「じゃ、またね、あゆ。お土産ありがと。これは私の寝室に飾らせてもらうよ。悪……いい夢が見られそうだよ。はは……」
真吾はそう言ったが、見るのはおそらく悪夢の方だろうと歩は思った。
* * *
その夜、近所迷惑な断末魔の叫びが轟いた。
「ぎょえええぇ――っ‼ ひでぶっ‼ あべしっ‼」
発信源は、真吾の寝室だった。




