第14話 人生初の……
チュイ~ン!
ピシャッ!
「ぶはっ! 何すんだよ!?」
歩が発射した水鉄砲型アヒル隊長の攻撃が至近距離で黒岩の顔面にヒットしたのを皮切りに、お湯のかけ合いが始まった。
まるでプールではしゃぐ子どもたち、はたまた渚で戯れる恋人たちか。否、それほど微笑ましくも睦まじくもない。ただの全裸男二人による悪ふざけである。
黒岩が勢い任せにお湯をかき揚げて応戦するや、歩は早々にアヒル隊長を諦め、逃げに転じた。追い詰められればサブマリンと化して黒岩の背後を取り、彼の振り向きざまを狙ってサイドスローでお湯を放った。
「うわぁ、目に沁みるゥ! 容赦ねぇな」
「俺はいつだって本気だ!」
「おのれ! ちょこまかと動きおって!」
「おほほほほっ、捕まえてごらんなさい。なぁんてね。俺が小さいからってバカにすんなよ!」
「小さいからって、バカになんかしてねぇよ」
「そうか……」
若衆の怒号と激しい湯しぶきが飛び散る中、哀れ二個小隊(兵員ゼロ)のアヒル隊長は荒波に揉まれながら宙を舞い、湯舟の外へと弾き出された。もとい、撤退を余儀なくされた。
その後、適当に身体を洗い、ふたりはヘトヘトになって部屋に戻った。温泉で疲れを癒すどころか、却ってくたびれた様子だ。
「浴衣着ようぜ。そういえば俺、今まで和服着たことないなぁ。七五三もスーツだったし」
「黒岩、ほんと人生初が多いな」
人生初が多い黒岩のこれまでの毎日が如何に野球漬けだったかが窺える。しかし、およそ若者の大半が経験するであろうことを全くと言っていいほど未経験だったとしても、それは恥ずべきことではないと歩は思う。むしろ、他のことに目もくれず、一途に没頭して目標に向かい、ひたすら頑張ってきた証として誇りに思っても良いくらいだ、と尊敬の念を持って黒岩を評価している。
「へへっ、俺の第二章の始まりだ。まだまだこれから人生初ってのを体験するぞ。おまえと一緒に」
「…………」
「おいっ、歩、何とか言え!」
「…………」
部屋には、青と紺の矢羽根柄と白地に朱色で描かれた琉金柄の二枚の浴衣が用意されていた。明らかに男性用と女性用である。
果てしない落胆を覚えつつも、歩はしぶしぶ琉金柄の浴衣を着た。男性用の浴衣に交換を願い出たところで、サイズが合わないことは想像に難くなかった。しかも、最小限の旅装だったために夜着などの類は持って来ておらず、不本意ではあったが、その浴衣を着ないわけにもいかなかった。救いは、それ以降、部屋から出る予定がなかったことだ。
「ヒューヒュー、似合ってるぞ。キュートだ」
他人の気も知らず、無神経に囃し立てる黒岩を歩はガン無視した。たとえ彼がカタログに載るレベルで格好良く浴衣を着こなしていたとしても、決して一瞥もくれてやるものかと、悋気混じりの無視を決め込んだ。
歩にだって男としての意地がある。致し方ないとはいえ、金魚柄の女性用の浴衣を着る自分の惨めさを、悔しいほど矢羽根柄が似合っている黒岩に羨望の目を向けることで、いっそう募らせてしまうのは極めて遺憾だった。
「どうよ? 俺、似合ってる? どうよ、これ」
そう言いながらこれ見よがしに歩の前でポーズを決める黒岩は、まんざらでもないと自負しているようだ。
「ツーン」
黒岩が視界に入り込んで来る度に、歩はプイと顔を逸らす仕草をした。悔しい思いのみならず、敢えてそうしなければならない理由も生じていた。まともに浴衣姿の黒岩に見入ってしまえば、おそらく、その格好良さに惚れ惚れとする表情を覗かせてしまうだろうから。そんな不覚を取るのは癪だった。
奥の六畳間には、ダブルサイズの布団が二組、並べて敷かれていた。
それを見た黒岩がゴクリと生唾を呑み込む様子が窺えた。その横で、歩の心拍がトクンとひとつ大きく跳ね上がった。
「二年越しの夢が叶う! 嬉しい。生きてて良かった」
「大袈裟だな。それに、二年越しって何だよ?」
ふかふかの布団に、ふたりは思い切りダイビングして寝転がった。
「修学旅行の時、俺、マジで凹んだんだ。おまえが桐島のお菓子に釣られて、あいつのものになったから」
「変な言い方するなよ。桐島くんとは何にもないよ。それに、お菓子に釣られたわけでもない。彼以外のみんなが気持ち悪かっただけだ」
高二の修学旅行のあの時だけは、歩には桐島颯也が天使に見えた。
「気持ち悪い、って……ヒドイな。まあ、ちょっと下心はあったかもしれないが」
「やっぱり」
「ああっ、歩、可愛いっ! いい匂いする」
いきなり黒岩が歩をかき抱いて布団の上をゴロゴロと転がり始めた。
「うわぁ! 何すんだよ! 目が回るゥ」
「わははははっ、楽しい!」
ふたりは抱き合って転がり、上になったり下になったりしながら布団の端から端までを何度も往復した。そうやって、しばらくじゃれ合った。
やがて、歩が下になったところで黒岩が動きを止めた。
笑い過ぎて息が上がり、互いの吐息を浴びせ合った。
「重いか?」
全身を歩に預けて黒岩が訊いた。
「まあ、軽くはないな」
「俺、もう少し、こうしていたい」
黒岩は脱力して覆い被さり、歩の首元に顔を埋めた。
彼の身体の重さが、歩には生命の重みそのものに感じられた。生きていてくれて、ありがとう。元気になってくれて、ありがとう。命の重さは、そのまま黒岩への感謝に繋がっていた。
歩が感慨に浸っていると、黒岩の手がもぞもぞと動いて浴衣の中に滑り込んで胸に触れてきた。
「よせっ、くすぐったいだろ!」
歩が身を捩って逃れようとするより早く、侵入した手はすぐに引っ込められた。
そして、黒岩は歩の胸に触れたその掌をじっと見つめて唸った。
「う~ん……」
「何だ? どうした? 突き指でもしたか」
「ペタンコ」
「俺の胸か! 当たり前だ。何期待してんだよ。風呂でもさんざん見ただろ」
「だからって、俺は怯まないぞ」
いつものように、黒岩は立ち直りが早かった。
「いや、少しは怯めよ。そして現実を知れ。ペタンコの胸に触ったところで面白くも何ともないっていう現実をな!」




