第13話 宇宙の湯
「あぁ~っ、生き還るゥ」
丸めたタオルを頭に載せて、首までどっぷりと浸かりながらオヤジ臭い台詞を吐く黒岩は心地良さげに目を閉じた。
「それ、おまえが言うとガチだな」
生死の境を彷徨った黒岩である。病院に搬送された直後の手術中、待合室で彼の両親と共に祈り続けたことは、ただひたすら『命を救ってください』だった。
そして、それは叶えられた。
「歩のおかげだ」
「俺は何もしてない。おまえの生命力の強さだよ」
黒岩の順調な回復が歩は何より嬉しかった。
彼の入院中は、毎日病室に出向いて、身体を拭き、食事やトイレ、着替えなどを手伝い、リハビリの様子を見守った。そして、日に日に傷が癒えていくのを一緒に喜んだ。縫合の傷は残るものの、擦過傷などの小さな傷は退院の日までには、ほぼ治っていた。医者をして驚異の肉体と言わしめる回復ぶりだった。
『歩が世話をしてくれるおかげで、俺の身体の細胞が歓んで、活性化したんだ』
黒岩はそう言って笑った。
「見ろ、歩、星が綺麗だ!」
「おおっ、星が多いな」
夜になるのを待って、歩と黒岩は露天風呂に入った。
星辰の宿と謳われるこの旅館の一番の売りが、夜の露天風呂である。就中、ふたりが泊まるこの露天風呂付の部屋は『宇宙の湯』と名付けられている。
岩で設えられた湯船の縁に後頭部を預け、夜空を仰ぐと、降って来そうなほどの星が瞬いている。まさに、宇宙の湯。看板に偽りなし、といったところか。
地上には、部屋から漏れる灯りと少し離れた所に背の高い誘蛾灯の光があるのみで、星辰の輝きを邪魔するものはない。掌を差し出せば、キラリン♪と妙なる音色を伴って星の欠片が舞い降りて来そうなほど幻想的だ。そして、そのまま目を瞑ると、まるで宇宙空間を遊泳するかのような浮遊感に陶然とする。
その解放感満点のロケーションに加え、含硫黄の源泉かけ流しのフレッシュな湯は、いっさいの迷いも何もかも洗い流してくれそうだった。
歩は、ある覚悟を持ってここに来ていた。自分を好きだと言ってくれる黒岩とふたりきりで泊まりで来ることの意味するものと敢然と向き合うのだ、と。
星辰の煌めきの下、微かに秋の気配を忍ばせた夏の終わりの涼風が火照った頬を撫でるようにそよぐ。
「歩ゥ」
食後のデザートをリクエストする時のような甘えた声音で、黒岩が呼んだ。
「なんだ?」
「そんな離れんなよ。もっとこっち来いよ」
「いや、ここでいい」
ふたりは岩風呂の両端に入っていた。
それぞれの前には、アヒル隊長が睨みを利かせている。しかし、隊長とは名ばかりに、部下の兵士はいない。一人ぼっちの隊長だ。そこに思いを馳せて眺めれば、そこはかとない哀愁も漂ってくる。
「ちえっ、……あいたたたたっ!」
突然、黒岩が悲痛な声を上げて顔を歪ませた。
「どうした!?」
どこか痛むのかと、歩は心配になって慌てて黒岩に近づいた。
「なぁ~んて。ウソ」
ニヤリとしながら、黒岩がすかさず歩の腕を掴んだ。
「ウソなのか。それならよかった。……ってか、放せよ」
「来いよ、歩。俺の膝に乗って」
「断る」
「歩……俺を死の淵から救い出してくれたおまえ自身のあの言葉を反故にするのか?」
すがるような目で黒岩が訴えた。
あの言葉とは――手術後、麻酔はとうに切れているはずが、なかなか目覚めない黒岩を心配し、もしかしたらずっとこのまま意識が戻らないのではないかと半ば動転しながら、歩が枕元で必死になって語りかけた言葉。特に、その中の一節『おまえの我儘、何でも聞かないでもないぞ』である。
「ねっ、歩、ここ! ここに乗ってみ」
しきりと黒岩が自分の大腿部を指して歩を誘う。
仕方なく、歩は言われるままに黒岩の膝の上に浅く横向きに座った。
「これでいいか」
「違ーう! こっち向いて跨れよ」
「やだよ。どうしてそんなことしなきゃいけないんだよ」
「だって、そうして欲しいから」
「俺はしたくない」
「歩……俺を救ったあの言葉を……」
それはもはや伝家の宝刀となりつつあった。黒岩は悉く刀を抜くつもりのようだ。
「わかったから。……だけどな、本当に乗っても大丈夫なのか?」
「リハビリみたいなもんだ。協力してくれ」
「リハビリか? これ」
歩は正面に向き直って黒岩の膝に跨った。たまらなく違和感のある体勢だ。身体が密着して、顔が近づき過ぎた。すると、黒岩の腕が歩の腰に回された。
「歩の肌、スベスベだな。さっそく温泉の効果が出たのか? いや、元からかな」
「尻に触るな! それにな、さっきから、硬いものが当たっているぞ」
「おまえは硬くなんないの?」
「ならない」
そう、問題はそこだった。たとえ覚悟はあっても、歩は黒岩に対して1mmも性欲を覚えないのだ。
「本当だ。何で?」
「触るな!」




