第11話 アヒル隊長 その①
『合宿計画』を聞いた真吾と彩が、温泉旅行をプレゼントしたいと申し出た。歩への御礼と息子の退院祝いを兼ねてということらしい。真吾は自分も同行するつもりだったようだが、彩に一喝されて断念した。
歩と黒岩は電車とバスを乗り継いで、山間の老舗旅館に着いた。
鄙びた小さな温泉宿をイメージしていた歩は、想像をはるかに凌ぐ荘厳なたたずまいに面喰った。
和装の女将をはじめとする、ずらりと並んだ仲居たちの出迎えを受け、ふたりが通されたのは二間続きの広々とした露天風呂付客室だった。
「ご両親、相当奮発してくれたんじゃないのか? ここ、すごく高そうだけど」
「ふふん、親父のやつ、自分も行くつもりで選んでたからな。俺、人生初の露天風呂!」
「おまえ、人生初が多いな」
「しょうがないだろ。野球ばっかやってたから。それにまだ十八年ちょっとしか生きてないし」
部屋の外にはデッキチェアが設えられたテラスがあり、ケヤキやモミジといった巨木に守られたプライベート庭園の中央に、圧倒的な存在感を以って鎮座する二十四時間湯浴み可能な源泉かけ流しの岩風呂が情緒たっぷりな湯煙を立ち昇らせていた。
「すげぇ! ここ全部、俺たちだけの空間か。よもや、サルが風呂に入りに来たりしないよな」
「本当に来たら怖いよ」
「へへっ、可愛いな~、歩。俺が守ってやるからな」
「あっ、大丈夫」
そうだ! と思い出し、歩はバックを探った。
「アヒル隊長、連れて来たから。黒岩の分もあるぞ」
出発の前、伊織と梨花が案の定、一緒に行きたいと言い出した。しかし、黒岩の湯治が目的であることを説き、どうにか思い止まらせた。それならばせめて自分たちの代わりにと、幼い弟妹はそれぞれが愛用するアヒル隊長を連れて行くよう長兄に頼んだのだった。
伊織は水鉄砲型のアヒル隊長を渡し、これで曲者を撃退できると自信に満ちた顔で言った。梨花からはスタンダードタイプのアヒル隊長を託された。これは黒岩に使ってもらうようにと。丸みを帯びた黄色のボディ、半開きのオレンジ色の喙、少し上目使いの黒目勝ちの眼、V字の睫毛、頭にちょこんと冠った赤い水兵帽。その全てが愛くるしさに満ちていた。
歩は弟妹との一連のやりとりを黒岩に説明し、アヒル隊長を渡した。
「そうか。わざわざ梨花ちゃんが俺に……。ありがたいな。だけど、実はな、俺も持って来たんだ」
黒岩は偶然の一致に複雑な表情を見せ、リュックを漁ってアヒル隊長を引っ張り出した。
「親父が持って行けって。自分が行けないからって、発想が幼い伊織くんや梨花ちゃんと同じってのが、わが親父ながら嘆かわしいぜ。防水機能は万全とかなんとか言ってたけど、そもそも風呂で遊ぶもんなのに防水って何だよ? なぁ」
「防水……? それ、ちょっと見せて」
歩は黒岩が慎吾から持たされたというアヒル隊長を手にした瞬間、若干の違和感を覚えた。通常のものより僅かに重い。よく見ると、半開きの喙の中にキラリと光るものがあった。まぎれもなく、それはレンズの類だった。
「黒岩、そんなに嘆くことはないかもしれんぞ。親父さんの発想は必ずしも小学校低学年や幼稚園の年少組と同レベルとは限らない」
「えっ、どういうことだ?」
「それはだな。う~む……」
暫し歩は考え込んだ。アヒル隊長に内蔵されていたのは、超小型カメラと見受けられた。おそらく、息子の回復状況を観察するために仕込まれたものなのだろう。子を想う涙ぐましいまでの親心だ。それは尊重して然るべきである。
しかし、問題が一つあった。実際に風呂でこれを浮かべて遊ぼうものなら、自分の貧弱な裸体も映り込む可能性がある。それはある意味、事故という案件にもなりかねない。もし、そんな事故が起これば、真吾にこの上なく不快な思いをさせてしまうことは必至。それだけは何としても避けねばならない。そこで歩は決断した。
「黒岩、何も聞かずに、これは仕舞っておいてくれ」
「なんだよ? このアヒル隊長がどうかしたのか?」
「何も聞くなと言ったろ。ずっと、おまえのズボンのポケットにでも入れとけ」
言うが早いか、歩は黒岩のカーゴパンツのサイドポケットにアヒル隊長を押し込んだ。
「いいか、俺の許可なくそのアヒル隊長を出すんじゃないぞ」
「なんかよくわからんが……わかった」
歩の命令口調に気圧されたのか、黒岩はただ頷くばかりだった。




