第10話 驚異の肉体
「おめでとう! 黒岩、本当に良かったな」
黒岩の退院が決まった。医師からは驚異の肉体と誉められた。
骨折した部分には未だプレートが入っているものの、事故から三週間余りで退院に漕ぎ着けた黒岩の回復力には目を瞠るものがあった。これもひとえに、幼少期から野球を通して鍛え上げられた強靭な肉体の賜物と言えた。
「ありがとう、歩。……今度こそ、行こうな、合宿」
「完治するまで無理はするな」
退院の決定に、歩は喜びで目頭を熱くした。ICU での意識のない黒岩の姿を思い出す度、胸を詰まらせて涙ぐむこともあった。それでも、日に日に快方へ向かう黒岩の生命力に歩自身が励まされた。
「完治なんて、そんな悠長なこと言ってたら夏休みが終わってしまうだろ。そしたら……おまえがこの町からいなくなる」
「ぎりぎりまでいるつもりだ」
本当は、ずっと故郷にいたい。それが歩の偽らざる心情だった。誰かに必要とされる歓び。それを帰郷して改めて知った。
初恋の男性、真田理仁亜が恋人の桐島颯也と仲睦まじく暮らす都市で、許されない恋心を抱えたまま、孤独な生活に耐えられるだろうかと懸念する。
「なあ、歩、俺ずっと考えてたんだけど、合宿に行くとしたら温泉なんてどうかな? 温泉療法的な意味でも」
「つまり、湯治だな。リハビリには良さそうだ」
『温泉』に微妙に躊躇いも感じたが、黒岩の身体のためには有効かもしれないと歩も賛成した。
「おまえのおかげで俺は生き還った。あの時のおまえの言葉、全部憶えてる。一言一句忘れてない。『目を開けろ、黒岩。起きてくれ。練習するんだろ、俺たち。おまえ、そう言ったよな。練習しようって。……そうだ! 合宿に行くぞ。何でも練習しないと上手くならないって言ってたじゃないか。練習して上手くなろう。そうしたら、俺は鬼に金棒で、おまえはプロ仕様の木製バットに格上げなんだろう? 黒岩、黒岩……! 起きろ、黒岩。起きてくれたら、おまえの我儘、何でも聞かないでもないぞ』この言葉で、俺はこの世に引き戻されたと言っても過言ではないかもしれない」
「……俺、そんなこと言ったっけ?」
呆れるほどの黒岩の記憶力に歩は虞をなした。実のところ、意識のない黒岩を前にして自分が何を口走ったか殆ど憶えていなかった。ただ、彼を想う一心だった。
「うん。この耳で、しかと聞いた!」
「だけどな、そんなことは忘れてもいいぞ」
自分が言ったとする内容に、歩は激しく動揺していた。いったい、どんな我儘を聞くはめになるのやら。
「忘れられるわけがない。むしろ忘れる方が難しい」
「黒岩、記憶力いいな。……さすがだ」
やはり黒岩はだてに優秀ではない。彼の頭の良さは本物だ。歩は感心しながら自身のこめかみのあたりをひとすじの汗が伝うのを感じた。
「歩と合宿に行くというインセンティブが、俺の細胞の活性化を促したんだ」
「おまえ自身の力だ。俺は何もしてないよ」
「そんなことない。歩がいたから俺は頑張れた。本当に、ありがとうな」
「いいよ。もうっ、照れくさいよ。……それより、桃でも食べるか? 昨日、ママさんが持って来てくれたやつ。ちょうど食べ頃だろう」
話題を変えるには食べ物が効果的だ。
「おおっ、食べる!」
「じゃあ、ちょっと待てろ」
歩は冷蔵庫から桃をひとつ取り出し、果物ナイフを使って慣れた手際で皮を剥いた。元々それほど器用な方ではなかったが、毎日のように黒岩のリクエストに応えて果物の皮剥きやカットをしているうちに自然と上手くなった。それだけのことだが、黒岩の両親からは感激され、看護師たちからは一目置かれた。
そうして、綺麗に皮を剥き終えた桃を一口大にカットして皿に載せ、爪楊枝を刺して黒岩に差し出した。
「歩に剥いてもらった果物を食えるなんて、ほんと幸せ。でも、退院したら終わりか。寂しいな。……あ、口に入れてくれないかな。楊枝は唇に刺さると痛いからヤだ。おまえの手から直接食べたい。俺ね、今日はちょっと指の動きが……なんだか、ぎこちない気がするんだもん」
甘えた声音で黒岩が言った。
「なんだ、それ?」
「あ~ん♪」
* * *
「あゆ~♪ ただいま!」
黒岩の父・真吾が息を切らして病室に駆け込んで来た。いつもの光景である。息子には見向きもせず、歩に微笑みかける真吾。
「パパ、おかえりなさい。今日もおつかれさま」
仕事帰りの慎吾を労う歩。これもルーティーンとなっているいつもの光景だ。
「走ってたら看護師さんに怒られちった。『廊下を走ってはいけません』だって。あんたは生活委員か、っての」
真吾は不満げに言い、ネクタイを緩めてくつろいだ。
「患者さんにぶつかったりしたら大変なことになりますよ」
早く帰宅させようとの配慮で急いで帰って来てくれるのだと、歩は慎吾の気遣いをありがたく思った。しかし、病棟の廊下を走るような無茶をすれば、思わぬ怪我や事故を招きかねない。それは絶対に避けて欲しかった。
「は~い。これから気をつけま~す。……ああ、駐車場から全力疾走したから喉が渇いちった。あゆ~、パパにジューシーな果物でも剥いておくんなまし」
「あっ、はい。桃があります。ちょうど食べ頃ですよ」
「ピーチ! いいねぇ。特に雨降りなんかにはいいよねぇ。ピーチピーチ、ケチャップケチャップ、ぶっかけてぇ♪ って、どんな味やねんっ!」
「親父ィ、俺もう退院するんだから歩との家族ごっこは終わりだぞ。これからは『歩さん』と呼べ」
「ええっ!? ガーン! ……健斗、まだ入院してれば?」
「何言ってんだよ、親父!」
「何って、そのまんまだけど」
「パパ、桃どうぞ」
歩によって瞬く間に皮を剥かれ、カットされた桃が真吾の前に供された。
「うわぁ、瑞々しい! ってか早っ。……あ、口に入れてくれないかな。楊枝は唇に刺さると痛いからヤだ。あゆの手から直接食べたい。パパね、今日はちょっと指の動きが……なんだか、ぎこちない気がするんだもん」
渋い二枚目の顔には似つかわしくない甘ったるい声が慎吾の口から発せられた。
「なんですか、それ?」
「あ~ん♪」
デジャヴ。否、もはや、これはシンクロニシティ。
歩は黒岩の場合と同様に頼まれるまま慎吾の口に桃を運び入れながら、ふと疑念を抱いた。早く帰らせてくれる気などないのではないか、と。
「んまいっ! あゆに食べさせてもらうピーちゃん最高!」
「だろ?」
何故かドヤ顔の黒岩。
「あゆ~、もういっそ本当に家の子になっちゃえば?」
「おおーっ! それ、いいっ! 親父もたまにはいいこと言うな。嫁! 俺の嫁な!」
「謹んでお断りします」




