第5話 チヨの幻影
■チヨの幻影
カレンは思わず後ずさりした。巫女としての使命、母から受け継ぐはずの責任、それらすべてが重くのしかかってくる。
震える手で、ふと魂写機を手に取った。母が大切にしている、古いカメラ。いつもは触ることさえ躊躇われるが、今は何故か手に取らずにはいられなかった。
ファインダーを覗くと、不思議なことが起きた。レンズに金色の光が宿り、そこに誰かの姿が浮かび上がった。若い女性――巫女装束を身にまとい、金色の瞳を持つその人は、まるでカレンに何かを訴えかけているようだった。
「助けて……」
幻影の唇が、そう動いたように見えた。
「ルカ……カレン……時間を取り戻して……」
幻影は霧に溶けるように消えていった。カレンの手が震え、魂写機を落としそうになったところを、ルカがそっと支えた。
「見えたのね」ルカは静かに言った。「チヨの想い」
「母さん、知ってたの?」
「感じてはいた」ルカは遠くを見つめた。「でも、見えたのはあなた。それは、あなたに資質があるということ」
「でも、私は」カレンは首を振った。「私はデジタルで。魂写機なんて古臭い」
「古臭い?」ルカは少し寂しそうに微笑んだ。「そうかもしれないわね。でも、カレン。新しいものと古いもの、どちらか一方じゃなくて、両方あってもいいんじゃない?」
その言葉が、カレンの心に小さな波紋を起こした。SIDのレンズに映る自分の顔。曇っていたはずのレンズの奥に、母の優しさを受けた自分の瞳が、微かに揺らめいているかのように感じた。
■決意の夜
「カレン、準備はできてる?」
ユウキの声で、カレンは現実に引き戻された。
「うん」カレンはSIDのケースを持ち上げた。「行こう」
しかし、その瞳には不安が揺れていた。デジタル技術への自信、それだけでは埋められない何かが、今まさに試されようとしている。
「大丈夫」ユウキは優しく言った。「俺がいる」
「ありがとう」カレンは小さく呟いた。
ルカはそんな二人を見送りながら、静かに魂写機を構えた。レンズには、娘の後ろ姿が映っている。そして、その向こうに、薄っすらとチヨの姿が重なって見えた。
「カレン、あなたならできる」ルカは呟いた。「私が保証するわ」
■物語の始まり
時計塔の針は相変わらず不規則に動き続け、紫のオーロラは空を不気味に染めている。町全体が、まるで時間の流れから切り離されたかのような異様な静寂に包まれていく。
魂写真館の窓に、説明のつかない影が映り込んだ。それは人の形をしているようで、そうでないような、曖昧な存在だった。影は窓を這うように動き、まるで中を覗き込もうとしているかのようだった。
カレンはSIDのゴーグルを装着し、改めてデータ解析を試みた。しかし、画面に映るのは解読不能な記号の羅列と、激しく揺れ動く波形だけだった。魂の叫びは赤いノイズとなって、すべての解析を拒んでいる。
「デジタルで絶対解決できる」カレンは自分に言い聞かせるように呟いた。しかし、心の奥底では、ルカが扱う魂写機の神秘的な光を思い出していた。あの虹色の輝きの中に、データでは表現できない何かがあることを、薄々感じ始めていた。
そして、クロミカゲの警告が脳裏にこだました。『あと7日』
タイムリミットは明確だった。それまでに真実を見つけ出し、町を救わなければならない。失敗すれば、すべての人が記憶を失い、町は時間の渦に飲み込まれる。
ユウキが心配そうにカレンを見つめている。その純粋な眼差しに、カレンは言い知れない安心感を覚えた。同時に、この優しい青年を巻き込んでしまうことへの申し訳なさも感じていた。
「カレン、俺にできることがあったら言ってくれ」
ユウキの言葉に、カレンは小さく頷いた。言葉にできない想いが、胸の奥で渦巻いている。
霧はますます濃くなり、魂写真館を完全に包み込んだ。外の世界との境界が曖昧になり、時間の感覚さえも歪み始める。デジタル時計の表示が乱れ、数字が意味をなさなくなっていく。
そして、町のあちこちから、困惑と恐怖の声が聞こえ始めた。
「お母さんは誰?」 「ここはどこ?」 「私は……誰?」
記憶喪失が、加速度的に広がっている。このままでは、夜が明ける前に、町の半数が記憶を失ってしまうかもしれない。
カレンは拳を握りしめた。
「行こう、ユウキ」
「うん」
二人は霧の中へと足を踏み出した。
クロミカゲの言葉が、カレンの脳裏に響き続けていた。
――お前の心が鍵だ、夢写師の娘よ。
その意味を理解する前に、物語の幕は上がろうとしていた。過去と現在、アナログとデジタル、記憶と忘却が交錯する、新たな試練の始まりだった。
時計塔の鐘が、再び不協和音を奏で始めた。その音は、まるで時間そのものが悲鳴を上げているかのようだった。
そして、どこかで誰かが泣いている。
それは、32年前から時の狭間に囚われた、一人の巫女の涙だった。