第5話:名もなき少年、ユキになる
静かな朝だった。
村の炊き出し場で、パンを焼く香ばしい匂いが風に乗って流れてくる。
「おはよう、ユキ!」
ナナが駆け寄ってきた。
ユキ(ぼく)は笑って、手を振る。
──ユキ。
それは、ナナが最初に付けてくれた“仮の名前”だ。
「あのとき、雪みたいに真っ白だったからって言ってたよね」
「うん。だって、あのときのユキ……ほんとに、どこから来たのかも分からなくて、
でもなんだか放っておけなくて……」
仮の名前。
いつの間にか、村の子たちも、村人たちも、自然にぼくを「ユキ」と呼ぶようになっていた。
それが、心地よかった。
“名乗っていないのに、名前で呼ばれている”というのが、不思議にもしっくりきていた。
* * *
その日、村の集会所に人が集まっていた。
どうやら、外から来た旅人が村を訪れているらしい。
村長のマースがその人物を紹介した。
「こちらの方は、交易路の情報を持ってきてくださった旅の方だ」
旅人は、少し驚いたようにぼくを見てから、にこりと笑った。
「へえ、この子が噂の……」
「噂……?」
その目が、どこか冷たく光った気がして、ぼくは少しだけ身を引いた。
* * *
集会が終わり、ナナと並んで歩いていると、村長が話しかけてきた。
「ユキ、少し話せるか?」
村長の小屋に通され、囲炉裏の火がぱちぱちと音を立てていた。
「……気になっていたのだが、お前、本当の名前を……」
「わかりません。思い出せなくて……」
正直にそう言った。
“前世”の記憶とやらは、断片的で、まるで霞の中の夢のようにぼんやりしている。
「そうか……」
村長は深く頷くと、ひとつの木札を差し出した。
そこには、焼き印で「ユキ」と彫られていた。
「この村に住む者として、正式に名簿に載せたい。よければ、この名で受け入れてもらえないか?」
ぼくは木札を手に取り、ゆっくりと頷いた。
「……“ユキ”って、名前。ぼくは、好きです。もらっても、いいですか?」
「もちろんだ」
名前を持つということ。
それは、この世界に、自分が“いる”という証だった。
どこにも居場所がなかったぼくに、居場所が与えられた瞬間だった。
こうして──
名もなき少年は、「ユキ」になった。




