表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/8

プロローグ:公園のベンチと、鳩と、おにぎりと

 東京の片隅、オフィス街のビル群に囲まれた小さな公園。高層ビルの谷間にぽっかり空いたその空間は、都会の喧騒からほんのわずかに逃れられる避難所だった。


 ベンチに腰掛けた男は、膝の上に乗せたコンビニ袋からおにぎりを取り出す。その手は細く、指先には長年の書類仕事で出来た《胼胝たこ》がうっすらと浮いていた。


「今日も、疲れたな……」


 《山名剛志やまな・たけし》、六十歳。独身。社畜。

 つい最近、定年を延長されることが決まり、これからもなお働き続ける運命を背負わされたばかりだ。


 定年延長、だとか。

 働ける幸せ、だとか。

 耳にこびりつくような建前を、彼はもう何百回と聞かされてきた。


 だが今日も、部下に資料の催促をされ、上司に提出ミスを責められ、誰かの尻拭いを押し付けられた。

 そしてやっと得た昼休み。上司の目を盗んでこっそり公園に抜け出し、ようやくひと息つけるこの時間だけが、剛志にとって唯一の安らぎだった。


 手にした《さけ》おにぎりの包装をゆっくりと剥がすと、足元に一羽の鳩がとてとてと歩いてきた。


「……なんだ、おまえも腹減ってんのか」


 剛志は、ふっと笑った。鳩の目が真剣すぎて、なんだか可笑しかった。


 気づけば、指先でおにぎりをちぎり、ぽいと地面に落としていた。


「ちょっとだけだぞ。俺の昼飯も大事なんだからな」


 鳩は嬉しそうに首を揺らしながら、地面のおにぎり片をつついた。

 その様子をぼんやりと眺めながら、剛志はふと、自分の人生を振り返った。


 ――なんで、こんなに頑張ってきたんだろうな。


 誰にも感謝されず、ただ“便利だから”という理由で働かされ続けてきた人生。

 それでも、自分なりに真面目に、誰かのためになるならと動いてきた。


 ……なのに、なぜだか最近、心臓のあたりがやけに重い。目の前がぼやけることもある。

 だが病院に行く時間もなければ、休めば給料は下がる。


 おにぎりを半分ほど食べたところで、彼はふと、呼吸が浅くなるのを感じた。

 胸の奥が熱い。指先が冷たい。視界が、霞む。


「ああ……やっぱり、か……」


 鳩がこちらを見上げている。真っ直ぐに、つぶらな瞳で。

 どこか遠い記憶の中の、犬のような、懐かしい目だった。


「せめて……あの鳩には、飯をやれた。まあ……それで、いいか……」


 そう呟いて、彼の身体はゆっくりと前に傾いた。

 おにぎりは地面に落ち、鳩が一口ずつ、慎ましく啄んだ。


 誰も見ていない、公園の隅っこで。

 名もなき社畜の、静かな死が訪れた――。


 だが次の瞬間、彼の意識は、《ひかり》の中で目を覚ますことになる。


 それが、《ユキ》の名を与えられた者の、新たな旅の始まりだった。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ