プロローグ:公園のベンチと、鳩と、おにぎりと
東京の片隅、オフィス街のビル群に囲まれた小さな公園。高層ビルの谷間にぽっかり空いたその空間は、都会の喧騒からほんのわずかに逃れられる避難所だった。
ベンチに腰掛けた男は、膝の上に乗せたコンビニ袋からおにぎりを取り出す。その手は細く、指先には長年の書類仕事で出来た《胼胝》がうっすらと浮いていた。
「今日も、疲れたな……」
《山名剛志》、六十歳。独身。社畜。
つい最近、定年を延長されることが決まり、これからもなお働き続ける運命を背負わされたばかりだ。
定年延長、だとか。
働ける幸せ、だとか。
耳にこびりつくような建前を、彼はもう何百回と聞かされてきた。
だが今日も、部下に資料の催促をされ、上司に提出ミスを責められ、誰かの尻拭いを押し付けられた。
そしてやっと得た昼休み。上司の目を盗んでこっそり公園に抜け出し、ようやくひと息つけるこの時間だけが、剛志にとって唯一の安らぎだった。
手にした《鮭》おにぎりの包装をゆっくりと剥がすと、足元に一羽の鳩がとてとてと歩いてきた。
「……なんだ、おまえも腹減ってんのか」
剛志は、ふっと笑った。鳩の目が真剣すぎて、なんだか可笑しかった。
気づけば、指先でおにぎりをちぎり、ぽいと地面に落としていた。
「ちょっとだけだぞ。俺の昼飯も大事なんだからな」
鳩は嬉しそうに首を揺らしながら、地面のおにぎり片をつついた。
その様子をぼんやりと眺めながら、剛志はふと、自分の人生を振り返った。
――なんで、こんなに頑張ってきたんだろうな。
誰にも感謝されず、ただ“便利だから”という理由で働かされ続けてきた人生。
それでも、自分なりに真面目に、誰かのためになるならと動いてきた。
……なのに、なぜだか最近、心臓のあたりがやけに重い。目の前がぼやけることもある。
だが病院に行く時間もなければ、休めば給料は下がる。
おにぎりを半分ほど食べたところで、彼はふと、呼吸が浅くなるのを感じた。
胸の奥が熱い。指先が冷たい。視界が、霞む。
「ああ……やっぱり、か……」
鳩がこちらを見上げている。真っ直ぐに、つぶらな瞳で。
どこか遠い記憶の中の、犬のような、懐かしい目だった。
「せめて……あの鳩には、飯をやれた。まあ……それで、いいか……」
そう呟いて、彼の身体はゆっくりと前に傾いた。
おにぎりは地面に落ち、鳩が一口ずつ、慎ましく啄んだ。
誰も見ていない、公園の隅っこで。
名もなき社畜の、静かな死が訪れた――。
だが次の瞬間、彼の意識は、《光》の中で目を覚ますことになる。
それが、《幸》の名を与えられた者の、新たな旅の始まりだった。