第9話 思い出の正体
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目が覚めてからほどなくして、僕は飛び起きた。
「嘘だろっ?」
起きたばかりなのに心臓は凄まじい勢いで脈を打っていた。
――夢でも見ていたんだろうか?
ああ、そうだ。夢だったのかもしれない。
メモリーズの思い出を嗜んだ後、そのまま本当の眠りに入ってしまい夢を見た。だからメモリーズと空想の境目が、分からなくなってしまっているんだろう。だってそうじゃないと……あまりにも偶然が過ぎるだろう。
『くーろーさーき、りょう、た……っと』
あっくんが相合傘にマジックペンで書いた名前は『くろさきりょうた』だった。
あろうことか僕の名前も『黒崎良太』だ。
あの裏門も、敷地沿いのフェンスも、突き当りの交差点も左に逸れる小道も、明らかに僕が3年間通った中学校の景色だった。
まさか、そんな偶然があるのか?
いや……そんな偶然はないだろう。
僕は電気をつけてリビングに向かい、コップ1杯の水を飲みほした。瞬く間に水分は吸収されていって、自分の喉がカラカラなのを初めて知る。矢継ぎ早に2杯、3杯、と追加で飲み干した。それから台所で顔を洗い、鏡の前で歯を磨く。
ひと通りの寝支度みたいなものを済ませてベッドに戻る。もう目が覚めてから10分ぐらいは経っただろう。
僕は仰向けになってゆっくり息を吐く。
それからもう1度改めて思考を始める。
僕はこの都合の良い思い出を、一旦は空想、つまり夢だと仮定した。だから起きてしばらく時間が経てば記憶が薄れていくだろうとそう思った。
ところが、
「……うそだ」
映像は全然消えてくれなかった。むしろ時間が経った分、映像は脳にこびれついてしまったようでさらに輝きを増していた。その如何にも人工的な記憶の感触は、明らかにメモリーズだった。
『くろさきりょうた』と彼女が書いた映像は、金色の光があまりにも自然に差し込んでいて、逆に不自然だった。十中八九、いや九分九厘どう考えてもメモリーズに違いなかった。
頭のなかは混乱に陥る。
時計の針は19時を回ったところで、カーテンの隙間は既に真っ暗闇。メモリーズを使用したあとの、もはやお馴染みとなった光景だ。しかし心情だけは違う。僕は気に病むことも中毒症状に苦しむこともなく、ただ真実を知りたくて、乱回転する頭のなかで必死に答えを探した。
僕は、混乱のなか本棚を漁りはじめる。探すものは中学の卒業アルバムだ。背表紙をひとつずつ指ではじいていく。右の端から左の端まで、それが終わると下の段、ひとつひとつ見落としが無いように目を凝らして確認をすすめていった。
“片原あゆみ”なんて幼馴染が居た記憶はない。
僕が知っているのは同じ高校にいる、最近知り合った片原あゆみだけだ。
しかし、もしも仮に1万歩譲って僕が片原あゆみの幼馴染であり、彼女との思い出を売ってしまったとするならば、僕のなかから片原あゆみの存在は無かったことになる。だったら記憶以外の方法で彼女の存在の有無を知らなければならなかった。
そしてその確認方法として最も適しているのが、卒業アルバムだった。
ところが、アルバムはどこにも見当たらなかった。
探している途中で思い出したのだが、中学時代に関係するものは大体処分してしまっていた。あの頃過ごした3年間は僕にとっては“無”そのものであり、中学時代を思い出すものは残す価値がなかった。いや……無価値どころか残っているとそれだけで、灰色の人生を見せつけられている気がしたものだから、いつの日だったかすべての冊子を紐で縛って捨ててしまったのだ。
メモリーズのなかと同じだ。僕はいつだって孤独だった。休み時間になると別校舎に避難をして悪意から逃れ続けていた。もちろん、チョークまみれになったことだって当然ある。そう考えるとやっぱり、メモリーズのなかのあいつは僕とそっくりだった。
僕は寝巻にダウンジャケットだけを羽織って家を出た。
町は異様に静かで、ぽつんと街灯の光だけが闇に浮かんでいる。必要最低限の電力しか使いませんと、そう言っているような、貧乏な町の夜だった。
肩をすくめ、ポケットに手を忍ばせる。顔じゅうにぶつかる冬の空気は、無数の小さな針が突き刺さってくるように痛い。どうやら僕はメモリーズに浸かりすぎていて今が真冬だってことを忘れてしまっていたようだ。暖かいインナーを重ね着してくれば良かった。
10分ほど歩くと、久しぶりに中学校へたどり着いた。
明かりはどの部屋にも点いてなくて、大きな校舎が要塞のようにどっしりと佇んでいた。
先生が見張っていた校門、校舎に面した無駄に広いグラウンド。鉄の扉が重たかった古びた体育館、渡り廊下にアスファルトの中庭、壊れかけのバスケットリングに消えかけのフリースローライン。どこを見ても、数年前とまるで変らない。
まったく懐かしさを感じないのは、メモリーズですでに見ていたせいなのだろうか。
いや……単純に懐かしみを覚えるほどのエピソードが無いからかもしれない。懐かしいという言葉は感情表現だ。僕はここに感情なんて無い。
外観を眺めるのもほどほどにして、外周を歩いた。フェンス沿いを少し進むと裏門に通りかかる。校門は思い出よりも少しだけ背が低く見えた。よじ登った彼女が浮かんできて、止めかけた足を再び急がせる。
思い出に耽るよりも今ははやく確認をしなければいけない。僕は小走りになって、あの落書きをしたフェンスに向かった。
敷地沿いをぐるりと周って、直線になる。
遠い向こうには交差点が見えている。その距離感はメモリーズの映像とちょうど重なる。
思い出を頼りに僕はフェンスのほうへ歩いた。やがて何かぼんやりと黒い塊が暗がりで見えはじめる。それは紛れもなく黒いペンで描かれた何かであり、胸がどきんと音を立てた。
フェンスに顔を近づけているとき、僕は何も考えなかった。いや何も考えられなかったのかもしれない。人は本当に集中しているときは何かを考える余裕すらないものだ。
しかし真実を知った瞬間の僕自身の反応というものは、それまでの緊張が嘘だったかのようにあまりにも呆気なかった。
「そりゃ……そうだよな」
僕はいま、多分笑っている。
そこにはメモリーズの通りで、雪だるまの相合傘にふたりの名前が描いてあった。それは当然だ。だってメモリーズ自体が誰かの売った思い出なのだから。架空の出来事ではなくて事実なのだから落書きが存在していることは実に当然だ。
僕は問題を取り違えている。
僕が確認しなければならないのは思い出自体の真偽ではない。
“くろさきりょうた”が“黒崎良太”なのかということだ。
でもどうやって?
あいつが僕自身だとどうやって確認する?
いやいや待て待て待て待て……。
もしあいつが僕ならば、片原さんは僕のことが幼馴染だって分かってるはずだろ? 彼女は「人の思い出で遊ぶんじゃない」と警告はしたものの、それ以上は何も言わなかった。僕が『あっくん』と口に出してしまった時だって、彼女は不審そうに詰問してきたじゃないか。
そうやって糸をつなぐように考えている時すでに、僕はある場所へ向かって歩き出していた。メモリーズのおかげでインプットされた道だ。僕は、あっくんとぼくだけの通学路を歩いて、何度も思い出の中で見たあの一軒家へ向かっていた。
移動している間も思考は出口を求め続けた。
やっぱり僕が見たものは空想なんじゃないかとか、実は顧客情報が抜かれていて僕にぴったりの人工的な思い出が作られているんじゃないかとか。疑いの目をかけてみるとどんどん思い出屋という存在が胡散臭く思えてきた。
思い出を売っているという設定自体がフェイクだと考えると、メモリーズの思い出が2か月で消失するという仕様も都合が合っているように見える。ずっと記憶にとどまり続けると不都合なことが起こるのだろう。
しかし……。
思い出の真偽は否定できないことは、落書きの存在が証明している。
そう考えてみると、やはり落書きを確認しに行ったことは良かったもかもしれない。
『くーろーさーき、りょう、た……っと』
歯を見せる彼女の横顔が、胸をかき乱す。
もしかしたら本当に僕は片原あゆみと――。
いやいやいやいや。
それはない。それだけはあり得ないんだ。僕に限ってそれだけは絶対にあり得ないことなんだ。
たしかに状況だけ俯瞰して見れば、片原あゆみと本当に幼馴染だったという解釈が最も辻褄が合うのだろう。そんなことは僕だって分かっている。でもそれは他のどんなに論理が破綻した推測よりも、絶対にあり得ないことなんだ。
何故かって?
それは上手く説明できないけど、僕だから分かるんだ。
そんな思い出があるわけがないって、僕自身だから分かるんだよ。
ほぼ100パーセントの確立であるはずがないのに、しかし僕はその1パーセントにも満たないであろう可能性に必死に抗っていた。僅かな隙間から漏れている可能性の光があまりにも眩しかった。1度信じてしまえばもう2度と戻れない、まるで魔境のような光だ。
だから僕は思い出のなかの一軒家に向かっているのかもしれない。何がしたいのかは分からない。ただただ、藁にもすがる思いなのだ。
「何してるの?」
運が良いのか悪いのか、坂道を上がりきったところで片原あゆみとばったり鉢合わせた。
彼女は手ぶらでダウンジャケットだけを羽織ったような、コンビニにでも行くような服装だった。半ばパニックになった僕が言葉を探していると、彼女は怪訝そうな表情で言った。
「人の思い出で遊んでるな?」
全身に寒気がぞわっと走る。
「何をしにきたの?」
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