第7話 昼休みの密会
<Episode 4>
昼休み、ぼくたちは別校舎にある何の教室かも分からない扉の前に座っていた。そもそも人通りがないうえ、そのスペースは窪みになっていて廊下を通りかかった人からは見えにくい。だからぼくたち――ぼくにとっては最適な場所だった。
「ねえねえ」
「なに?」
僅かな喋り声でさえ反響する、静かな空間だった。
「なんで学校ってチョークなのかな?」
「ペンのほうが嫌だな」
制服をチョークまみれにしたぼくは冗談を言った。せっかくの自虐ネタにあっくんは笑わない。
「かして」
彼女はぼくの手首をとって自身に引き寄せた。こぶしが彼女の膝の上に乗る。どきっと胸が高鳴ったのも束の間で、彼女の行動にぼくは口を開けた。
あっくんは、自分の袖で力強くこすって、チョークの汚れを拭いはじめた。
「ちょ、汚れるぞ」
彼女のブレザーはまだ折り目もついてない、新品として売られていてもおかしくないぐらい綺麗だった。
「いいのいいの」
「良くないって」
「良くなくないって」
あっくんは腕を離そうとしない。
「汚れも半分ずつになるよ」
「いやいや」
なんであっくんがぼくの汚れを受け入れる必要があるんだ。これはぼく自身の問題だ。
そう考えると意地でもやめさせたくなってきた。
「いいって」
半ば強引に腕を引き離した。
「もうケチ」
頬を膨らませる彼女にぼくは言い返す。
「ケチの使い方間違ってるよ」
「たいちゃんこそ間違ってるよ」
「ぼくが何を間違ってるんだよ」
「私の使いかた」
吹き出しそうになった。
「どういうことだよ」
「もっと甘えてもいいんだぞってこと」
ぼくはもう何も返さなかった。
甘えてもいいんだっていう言葉が何だか妙にリアルで、どう返したらいいのかが分からなくなった。
会話が止まると、遠くのはしゃぎ声が聞こえるようになった。きっとこの校舎ではない。渡り廊下を渡った先のさらに別の階。ぼくにとって雑音でしかないその音はやけに楽しそうに聞こえた。
「……ごめんな」
「なんで謝るの?」
あっくんの顔は見れなかった。
「友達、あっくんはいるのに。別にいいからな」
「たいちゃん失礼だよ」
「何が失礼なんだよ」
「私が自分の意思でここに居るんだから。自分のことは自分で決めるし」
ぼくは胡坐から体育座りに足を組みなおす。くるぶしが痛くなってきたからだ。でも、もしかしたらその動作はきっとぼくなりの時間稼ぎだったかもしれない。何も返せない自分が嫌だったのか、単に空白が嫌だったのかは分からないけれど。
しばらく無音でいると、大きな予鈴が鳴った。
キーン、コーン、カーン、コーン……いつも一定のリズムと音程で流れているはずなのに、その音は日々だんだんと重たく、暗く、苦しくなっていく。いまからぼくは本来居なければならない場所に戻るんだ。
どこを見ることも許されず、息をすることすら苦しくなってくる、そんな空間に。
腰を上げようとしたぼくだったが、不思議なことにあっくんは立ち上がろうとしなかった。
むしろ、まだ座っていなさいと言わんばかりに、真っ黒い瞳はこちらを見つめている。
「……行かないの?」
「だって予鈴だよ」彼女は「あと5分あるじゃん」と続けた。
「移動とかあるだろ」
ぼくのツッコミには反応しない。
「……密会、私は好きだよ」
「は?」
「こうして、休み時間にひっそりと会うの、なんだかイケないことしてるみたいじゃん」
ぼくは黙った。なんて返せばいいのかも分からなかったし、返さなければいけないのかどうかも分からなかった。
彼女が音もたてずに、おしりだけ動かしてこちらのほうへ距離を詰めてくる。
「なんだよ」
「なによ、近づいちゃいけないの?」
「別に」
ふたりで、何かを眺めているかのように並んでいた。体の左側は、彼女の右側とぶつかっている。心臓の鼓動がうるさくなってきて、それが伝わってしまうことが怖くて、ぼくはほんの数ミリだけ彼女から身を離した。
あと3分だろうか。それとも2分しかないだろうか。それとも、もう実は1分しか残されてないのだろうか。
「こうやって並んで座ってるの、懐かしいね」
ぼくはそう言われて、記憶を巡らせてみる。しかし答えに辿りつくより先に彼女は言った。
「犬小屋が見てられなくって一緒にちょうちょ眺めてたね」
「あははっ」思わず笑ってしまった。だってそんな昔の話だと思わなかったから。でもぼくだって、その時のことはありありと覚えている。
小学校の体験学習で動物園に行った時のことだ。
わんわんコーナーが見ていられなくて外で暇をつぶしていたぼくに、あっくんは話しかけてきた。
『体験学習、つまらないよね』
「一体なんの体験なんだよな」
『本当。先生に聞いても答えてくれないし』
『先生だって答えが分からないのかもな』
狭い檻に閉じ込められた犬をまるで絵画を眺めていくようにして通り過ぎていくことの必要性も、その楽しみ方も、また正しい反応の仕方もぼくには分からなかった。
でもそんな生徒は自分しかいない。みんな与えられた環境で精一杯楽しんで、学んで、反射的であっても正しい反応を示しているようだった。そんな空間が嫌だったし、そんな周囲も嫌だった。そしてそんな自分も嫌だった。
だからあっくんが話しかけてくれた時は、本当に天使に思えたのだ。
「ちょうど目の前にお花畑があったんだよね」
「美化しすぎだろ。あれは花壇だったぞ」
「細かいことはいーの」
果たして細かいことなんだろうか。
「それでさ、ちょうちょが自由にお花とお花を行き来してたんだよね」
「あっちのほうがよっぽど学習って感じがする」
「ほんと。わんちゃん、閉じ込められて可哀想だったよね」
「ああ」
ふと彼女の顔を見ると、細めたつぶらな目がこちらを窺っていた。ぼくはすぐに視線を落とす。だが、彼女の言いたいことは、ぼくが思っていることと殆ど同じだ。
「あの犬の毎日って、なんなんだろうな」
「朝起きて、飼育員が餌を置きにくるよねきっと」
「そしたら餌を食うか。食ったあとは特にすることもなく寝たり起きたり……」
「そしたら開園じゃない? 得体のしれない人間が目の前を行き来するんだよ」
「仲間は別の檻だから、ひとりぼっちか」
「ねえ、散歩とか出れないのかな?」
「さあ、分かんないな」
言葉を交わしながらふと思った。あの頃のぼくたちもなんだか似たような会話をしていたような気がする。ここまでの語彙がなくとも、きっと今と変わらない感性で自由に思いを言葉にしていたんだろう。細かい記憶のピースは揃ってないけど、当時の色や模様はしっかりと胸に刻み込まれていた。
「ねえ、たいちゃん」
「ん?」
「授業はじまったよ」
あっくんはそう言って、スマホの画面を見せてきた。
授業が始まって2分が経過していた。
「ちょ、なんだよやばいじゃん」
ぼくは慌てて立ち上がった。けたけたと笑っている彼女。しいんと静まり返った廊下で無邪気な笑い声はよく反響した。
「もう行くから」
「じゃーね」
座ったまま、彼女は手を振った。無視をしてひとり教室へ向かう。ずいぶん余裕そうな彼女を見て、やっぱりこんな時間に付き合わせるべきじゃないとぼくは思った。だって、彼女はぼくと違って今をちゃんと生きられる人なんだから。
密会はこれっきりだ――そう小さく決心をした。
「ねーえ」
彼女は大きな声でぼくを呼び止めた。振り返ると、小さくなった彼女が座ったまま言う。
「今日一緒に帰ろ。ここ集合ね」
「……分かった」
決心はものの5秒で崩壊した。
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