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第6話 人の思い出で遊ばないでよね



******


 

 1度思い出の渦へ入り込むと、もうそこから這い出るのは困難を極める。

 授業中、僕は思い出に酔い続けた。


 カーテンを閉めたリビング、不自然に明るいLED灯、そこは紛れもなく本来は一緒に過ごすはずのない夜の時間だった。12歳にしては異質な時間、そして空間。ただの夜だけれど、されど夜。女の子の家にお邪魔しているという感覚が僕にはどうも嬉しかった。


 虫の音も聞こえない静かな住宅街の夜。真向かいに座るふたり。光が宿ったような瞳。胸をくすぐってくる言葉。


『行ってきますのキスは?』


 なんなんだよ、それ。

 なんでそんなに可愛いんだよ。

 酒を飲んだことはないけど、きっとこれが酒に酔う感覚なんだろうと思った。


 教室を支配している教員の声も、ところどころで聞こえる生徒の話し声も、今の僕にとっては思い出に耽るためのバックミュージックにしかならなかった。『本格的に終わってるな』ともうひとりの自分が胸のどこかで呟いた。しかし、あまりに思い出の存在が大きすぎて、小さな声は奥底へと埋もれていく。


 思い出という魔物に、もう僕の身体は支配されてしまっていた。

 しかし休み時間になると、思い出にどっぷり浸かっていた両足が現実世界に戻ってくる。

 唯一、現実に繋ぎとめている存在が“ハラちゃん”なのだ。


 ある時は廊下を見切れていって、ある時は声だけが聞こえてくる。ある時なんて教室のうしろで友達とお喋りを楽しんでいる。彼女を目で追い、耳で追い、そうしていると休み時間があっという間に終わっていった。


 ーーハラちゃんとあっくんは本当に同一人物なんだろうか?


 その信じ難い偶然は、やっぱり手離しでは信じられない。何度か思い出と現実を行き来するなか、僕のなかの疑問は膨らんでいくばかりだった。そうして僕は、とある思考にたどり着くこととなる。それは恐らく健全なルートを辿っているのだと思う。


 ――ハラちゃんの名前が知りたい。


 彼女の名前が分かれば、本当にあっくんなのか、ある程度は分かるんじゃないか? そう思ったのだ。だから、彼女に会ったらフルネームを聞いてみようと決めた。女子に自ら話し掛けるなんて、本来の僕ならあり得ない行動だ。


 それも全て、メモリーズによってもたらされた魔力なのだろう。


 そしてチャンスは思っていたよりもずっと早く訪れた。

 移動教室に出遅れて、既に授業が始まっているなか階段を下っていた時だった。


「あ……」


「おっ?」


 彼女は足を止めた僕に、応じるように足を止めた。それから「遅刻だよっ」とほほ笑んで僕の横を通り過ぎる。仄かな甘い香りが鼻を抜け、胸の奥がぎゅうっと締まる感覚がした。


「あの!」


「……ん?」


 こちらを振り返った彼女に、僕はひと思いに聞いた。


「な、なまえ、名前はなに?」


「急にどうしたの?」


「なまえ、教えて欲しいんだよ」


 踊り場から漏れる光は彼女を影にしていた。振り向きざまの淡い影は、首を傾げる動きをした。


「みんなハラちゃんって呼んでるよ?」


「それは知ってる。本当の名前を知りたい」


「一体どうしたの? あんたなんかヘンだよ」


 たぶん、彼女は僕のことを不審がっている。少しばかり低くなった声色がそれを表していた。

 そんな彼女の様子に焦ったのか、僕は口を先走らせてしまった。


「あっくんなのか知りたいだけなんだよ」


「……あっくん?」


 しまった。


「あっくん、って言った?」


「いや……」


 言葉は詰まってしまい、言い訳が出てこない。

 踊り場からこちらを見下ろしていた彼女は、ゆっくりと階段を下った。影まみれだった表情に少しずつ線が加えられていく。


 さっきすれ違った時の微笑みは、見る影もなかった。


「なんで私の、昔のあだ名知ってるの?」


 ちょうど目線が同じになった彼女を直視できない。


「ねえ、聞いてる?」


「いや……たまたまだ」


「たまたまってどういうこと?」


「たまたま、夢に出てきて、それで……」


 心臓が短く、強く、脈を打ち続けている。


「嘘つき」


「いや……」


 彼女は一歩、階段を下って間合いを詰めた。さっきすれ違いざまに漂った淡い香りが、僕の世界を埋める。


「あんた、誰なの?」


「いや」


「私のこと『あっくん』て呼ぶ人なんて限られてるんだけど」


 そもそも僕は“あの”思い出の詳細を知らないし、そもそも売主がどういう素性の男なのかすら知らない。

 言い訳が思い浮かばない僕は、何も言えなくなってしまった。


「本人じゃなさそうだね」彼女は引き締まった表情のまま続けた。「あんた……思い出買ってるでしょ?」


 心臓がどきりと音を立てた。


「えっ」


「はい動揺。買ってるね」


 あまりにも唐突な言葉だった。

 まさか、あっくん張本人から“思い出を買ったでしょ”なんて言われるとは思ってもない。


 僕は理由は分からないけど焦っていた。しかし必死に思考を巡らせているのに、空回りするばかりで何も言葉が浮かんでこない。


「どこのどいつが売ったのか分からないけど、あんまり人の思い出で遊ばないでよね」


「え?」


「じゃあね」


 彼女はそう言い切ってスカートを翻す。

 しかし幾らか階段を上がったところで、またこちらへ振り返った。


「片原。片原あゆみ」


「え?」


「なまえ! あんたが聞いたんでしょうが」


 なお呆然する僕。

 彼女はもう振り返ることはなく、軽々と階段を駆けあがっていった。





 片原さん……。

 あっくん。

 片原さん……。

 あっくん。


「あとすこし……」


 駅から小走りで10分ぐらい、息はもう完全に上がっていた。

 もうすぐで家に着く。夕方前の曇り空は辛うじてまだ白い。でもメモリーズを飲めば、気付かない間に空は真っ黒に染められるんだ。


 今日の今日まで、頭のなかはあっくんでいっぱいだった。でも今はあっくんと片原さんが、まるで出番を決めているかのように順番に登場している。


 疑問はたくさんある。

 片原さんは僕が思い出を買っていることを察した。つまりは、幼馴染が思い出を売ったという事実も当然知っているということだ。そしてさらに、片原さん自身はその思い出をまだ手離さずに持っているということにもなる。


 一体ふたりの間に何があったのだろう。

 ふたりはどういう結末を迎えたんだろう。

 思い出を売ったということは、その男にとって彼女の存在は無かったことになっている。その事実を彼女はどう感じているのだろうか?


 ふと、彼女の姿が浮かんだ。

 ――あんまり人の思い出で遊ばないでよね。

 怒っているような笑っているような、そんな勝気な顔だった。


「悪いな」


 その忠告は守れそうにない。もう脳は理性の居場所を失っている。目が覚めたあとの後悔は分かっているつもりだ。それでも、すぐ先に待ち構えている七色の輝きには、とてもじゃないけど僕の精神力では抗うことができない。


 はやく、1秒でもはやく、メモリーズが飲みたい。

 もう団地群に辿りついていて、僕の住む号棟は目と鼻の先になった。

 メモリーズを前にしたら、数ある疑問もすべて無になる。むしろ、片原さんがあっくんだと知った今、思い出への欲望はこれまでよりもっともっと強くなっている気がした。


「ただいま……」


 靴を脱ぎ捨てると同時にカバンも投げ捨てて自室に駆け込んだ僕は、手も洗わないままメモリーズを口に放り込んだ。




 ……あっくんと彼は中学生になっていた。




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