第5話 夫婦ごっこ
<Episode 3>
眩しかった夕陽が落ちた。
あっくんはリビングに明かりを点け、それからすたすたとすり足でカーテンを閉めにいった。暗くなった窓が桃色のカーテンで隠されいくその様は、まるで大きな幕が閉じられていくようだった。窓は今日1日の役目を終えたんだ。
「ねえ、寒くない?」
「言われてみれば」
エアコンはついているはずだが、部屋はひんやりしていた。もしかしたら夜になってうんと気温が下がったのかもしれない。部屋じゅうを漂っている柔らかい柔軟剤の香りがなんだかミスマッチだった。
「最近調子悪いんだよね」
あっくんは窓の上にあるエアコンにリモコンを向ける。ピッと音がなった。
エアコンがうなり声をあげて風を送りだす。
彼女はテーブルに戻ってすっかり冷めたであろうホットミルクをひと口飲んだ。
カーテンで閉め切ったリビングは、なんだか世界がここだけになってしまったような、日常では感じることのできない不思議な感覚がした。だからって嫌な感じはまるでなく、ぼくは密かにふたりきりの空気を味わっていた。
彼女の家のリビングは、そこそこ広いのにシンプルな空間だった。大きなグレーのソファが部屋の端っこに設置されていて、向かいに液晶テレビが置かれている。その間にミニテーブルがぽつんとあり、家具らしい家具はほかに見当たらなかった。
多くのものは必要としないシンプルな性格が現れているような気がして、なんだか彼女の住んでいる家なんだと納得してしまう。或いは彼女の両親がそういう性格なのかもしれないが。
夜のリビングでふたり、向かい合っていた。
「ねえ、昨日もらった学年だより見た?」
「学年だより? ああ見てない」
学年だよりとは、各クラスの学級委員が数か月に1度出しているお便りである。今後の予定とか行事の振り返りとか、あとは占いだとかちょっと砕けたアンケートの結果発表とか、そんなことが書いてある。正直、あんまりぼくは興味がない。
「私とたいちゃん、1位だったよ」
「なにが?」
果たして。
彼女は、にししと歯を見せ、少し間をおいてから言った。
「結婚しそうなふたりランキング」
どきっ、と心臓が跳ぶ。
「なんだそれ」
「私たちってそう見えてるらしいよ」
ぼくは、頬がすごい勢いでつり上がるのを必死に堪えていた。
「くだらないな」
「ねえ、たいちゃん」
「なんだよ」
「私たちって、幼馴染だよね」
ぼくは思わず口を閉じて、次の言葉を待った。
もしかしたら、彼女の口から出る言葉に、期待を持っていたのかもしれない。
「ただの幼馴染なのにさ、周りからはそう見えてるんだよ。面白くない? 私たち、まだ小学生なのにさ」
「そうだね。ただ仲が良いだけなのに」
「そーそー。ただお互いに落ち着くだけなのにね」
「喋っていて楽しいだけなのにな」
「ふたりで居るときがいちばん楽なだけなのに」
「……」
ラリーを止めたのはぼくだった。
代わりに何か言葉を探してみたけれど、何も思い浮かばない。
今日はもうそろそろ、帰ったほうが良いのかもしれない。
「ねえ、結婚しても上手くいくかもよ」
「え?」
「私たちの話」と彼女は力みのない笑顔で付け足す。
「ぼくたちはまだ、そんな年じゃない」
「そう言わないでさ」
あっくんは頬を赤くして言った。
「練習してみようよ」
「……練習って」
「夫婦ごっこ、たいちゃん夫ね」
そりゃあぼくが妻役をやるわけにはいかないだろう。って……そういう問題じゃない。
「ぼくはもう帰るよ」
「ええー」
「ええーじゃない」
「じゃあ帰りだけでもさ」
ぼくが帰ろうとすると、あっくんは子犬のようにあとを付いてきた。背中にそっと触れている両手は温かくて、吸い込まれそうだった。帰りたくない。まだまだ全然帰りたくない。なんなら明日までここに居たいくらいだ。
玄関のドアを前にうしろを振り向く。
あっくんが照れくさそうにぼくを見て、そして笑った。夫婦ごっことやらはどうやら始まっているらしい。
何秒間かの沈黙のあと、彼女は小さく口を開く。
「あなた……? 行って、らっしゃい?」
語尾が笑う。
顔も笑ってる。
歯切れなんかも悪くって、いつものあっくんじゃない。
「ああ、行って……くる?」
こっちの語尾も笑った。
たぶん、顔もみっともなく笑ってるだろう。
ぼくは玄関のドアを開ける。
それじゃあ――手を振って帰ろうとした。
「あ、たいちゃん」
「ん?」
外に出る手前のぼくと、玄関マットに立つ彼女。微妙な距離感で彼女は言った。
「行ってきますのキスは?」
次の瞬間、ぼくはもうドアを閉めていた。
外はうんと冷たくて、しいんと静まり返っていた。体に感じていた家の温もりが一瞬で消え去っていく。
――行ってきますのキスは?
数秒前の彼女が脳内でリピートされる。笑顔なんだけど語尾は笑ってなくて、きらきらした目は真っ直ぐぼくを見ていた。
なんて恥ずかしいことを言うんだ。
なんでそんな恥ずかしいことが言えるんだろう。
ぼくは胸へ焼き付いた彼女の姿を必死に振り払いながら、いつものように丘を下る。
見下ろした街は青黒い影に埋め尽くされ、その中にぽつりぽつりと街灯が浮かんでいた。本当に夜が訪れたんだ。ぼくは焦って、少しだけ足を急がせる。ところが駆けだして間もなく、ぼくの足は何かを思い出したように止まった。
振り返ってみる。
あっくんは、カーテンの内側に入り込んで、こちらを見ていた。ぼくと目が合った瞬間、まるで驚いたような笑顔になって、それから手を振った。
ぼくもまた、右手だけをやる気なく上げて丘を下った。
こんなに風が冷たいのに、どうしてか胸は小さな火を灯したようにほんのりと熱かった。
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