第40話 残り三日のタイムリミット
*
長い長い土日を僕は過ごし、月曜日の朝を迎えた。
とはいえ、いざ週明けを迎えてみると過ごし終えた時間の長さは変わらないように思う。その時に早送りをしたいと思っていたのか、時間を止めてしまいたいと思っていたのか、こちら側の感じ方の問題でしかないのだろう。
――さすがにお前にいくのは元カレとして許せねーからさ。
ジュンヤの残像は未だ頭のなかへこびれ付いたまま。この2日間彼は図々しくそこに居座り続けて、執拗に僕を嫌がらせてくれた。おかげさまで少しはこの痛みにも慣れてきたのかもしれない。居なくなって欲しいことに変わりはないけれど。
――あんなことやこんなこと。
その強烈な事実を消化するには2日間じゃあまりに足りなさすぎた。あまりにも毒素が強すぎて僕なんかが消化できるはずがなかった。だからもし、メモリーズに記憶消去のシステムが無かったとしたらそれはもう末恐ろしい。
あと3日なのだ。とうとうあと3日で、メモリーズの記憶は跡形もなく消える。
あっくんの記憶が無くなってしまえば、片原さんは当然ただの同級生になる。彼女とお出かけをした記憶などは、中身のないあんパンののようなもので、そこに感じ取るものなどは何もないのだ。
あと3日で解放される。あと3日で元の生活に戻る。
そう言い聞かせて、僅かに胸を痛めながら僕は今日も学校を目指して家を出る。
夜が明けて間もない外の空気は、キンキンに冷たかった。いくら3月に入ったとはいえ、温かくなるのはまだまだ先になるんだろう。道端には軸の太い霜が立ち、駐車場にある車の窓ガラスは凍っていた。空気中の粒子に棘が生えているかのように風が痛くて両手はポケットに沈める。そりゃあ窓ガラスも凍るわと、無感情に呟いた。
誰も居ない公園の角を曲がり、緩やかな坂を下る。
「おはよ」
反射的に振り向いてしまった。
そして僕は『ああ、やっちまったな』と自分に言いながら彼女の顔を見た。
「……おは、よ」
僕だけじゃなく、片原さんも足を止めていた。ふたりして足を止めていることに意見が一致しているような気がした。
一緒に登下校するような仲ではない。だから足を止め、一緒に歩くことを拒んでいる。
「あの……さ」
「なに?」
「たいちゃんに、伝えたいことがあったんだけど」
たまたま会った相手に言うような言葉じゃないと思った。
「なに?」
「いや、ずっと探してたじゃん? あの、雪だるま」
「ああ……」さがしてないよ、と言いかけるがやめた。
片原さんは歯を見せていった。
「見つけたよ、うちで」
「ほんとに?」
「うんっ。だから今度渡してあげるね。じゃあねっ」
一瞬だった。
彼女は颯爽と僕を追い越した。まだ笑顔の残像が残っているのに、彼女の背中はいつの間にかずいぶんと遠くに行ってしまっていた。うしろからでも分かるくらい寒そうに顔を埋め、それなのにスカートは風に舞い、生足が伸びている。
寒くないんだろうか。ズボン、履けばいいのに。そんなことをまるで親しい仲かのように心配した。
あと3日か。
あと3日のうちに、雪だるま持ってきてくれるのかな。
「ははっ」
思いきり首を振って、邪念を振り落とした。
ちょっとでも油断をするとすぐに無駄な期待をしようとする自分が、滑稽で、図々しくて、腹立たしかった。
*
朝から躓いてしまった今日は、ムカムカする日になってしまったのかもしれない。
休み時間や移動教室などのタイミングで片原さんを見かけた。いずれも彼女は自然な笑顔を浮かべて友達とお喋りをしていて、ごく普通の日常を謳歌しているように見えた。とてもじゃないけど僕と同じ条件で、これから幼馴染の記憶を失うようには見えなかった。
それなりに切ないし,、それなりにムカムカする。
まるでなんでもない景色のように素通りをされていくことは胸が抉られるように悲しかった。腹の底にある黒い水がかき乱されるような嫌な感情が僕を支配した。
これも朝、彼女に会ったからなんだろうか。
余計な期待を彼女にかけてしまったからなんだろうか。
ホームルームが終わり僕は真っ直ぐ帰路へ就いた。
淡い夢だった、と思う。所詮は夢だったのだ。
ひと言でそう片づけることが今の僕にとっては優しく感じた。
彼女だって夢だと思っているんじゃないか。
だから“たいちゃん”は現実世界においてはただの虚像であって、この黒崎良太と重ねることはない。そうやって割り切ってメモリーズを見ているのかもしれない。彼女にとってメモリーズはしっかりと娯楽なのだ。だから執着もしない。続きを見ようとしないのは単純にあの物語が面白くなくなったから。
だから、必要以上の執着はしないから、僕がメモリーズをすり替えたことにも気が付かない。もうこのままメモリーズには触れずにタイムリミットを迎えるのかもしれない。
駅のホームへ降り、誰も居ない乗車口に並んだ。
電光掲示板を見上げると電車が来るのはまだ5分以上先だった。線路を飛び越えた向こう側の景色をなんとなく見た。弱い陽光を浴びながら、ランドセルを背負った小学生の男の子と女の子がじゃれ合っていた。季節外れの薄着なのに全然寒そうに見えないのは子どもだからだろう。彼らは走り出して、そのまま吸い込まれるように駅の階段へ入っていく。
強い雨の日、そういえば同じように小学生を眺めていた。無数の雨粒が傘にぶつかる光景を見て、よくもこんな雨のなかを歩いてきたものだと自分に感心したんだ。そういった具合でぼうっとしていたから、いつの間に隣りに片原さんが並んでいたことにも気が付かなかった。
おそるおそる、隣りを見た。
当然のようにそこには誰も居ない。
しかも駅の向こうに見える空は青い。何もかもが違った。
「はあ……」大きなため息が漏れてしまう。
なんで君は時どき優しいんだ。
時どき声を掛けてくるんだ。
時どきメモリーズを見ると宣言してくるんだ。
踏ん切りが全然つけられないじゃないか。
そのまま何の変化もなく、僕はただホームへ滑り込んできた電車に仕方なく乗った。その瞬間から景色はモノクロと化してしまった。たぶん、いろいろなことに対して過敏になってしまったのかもしれない。だからこういう小さな諦めひとつでも肩が地面に落ちてしまうぐらい気が落ちてしまうんだろう。
やっとの思いで家に着くと、僕は制服のままフローリングに寝転んだ。
何もする気が起きないし何も考えたくない。ふとした瞬間に差し込んでくる思考のきっかけが怖いから無気力を貫き通すことに懸命だった。その甲斐あって、家に帰ってからもしばらくの間は静穏に過ごすことができていたと思う。
だが、そんな精神状態が続いてくれるはずがない。
真冬に比べて陽が伸びてきたとはいえ、当たり前のように夕方は訪れた。
すると僕が丁寧に作り上げた無力感は一気に崩壊し、代わりに焦燥感が渦を巻いた。
明日になればあと2日になる――。
止まっていたタイムリミットが動き始めてしまった。
あと2日。まるで刃物を突き付けられられているような気分だ。
しかし明日になれば、日が暮れる頃にあと1日を意識するだろう。そしてあと1日になったならば、翌日に迫った虚無に恐れ、おののくことになる。思っていたよりも終わりはずっとずっとすぐそこにある。
背中に強い悪寒が走った。
彼女を失うということはなんて恐ろしいんだろうか。
この前みたいに外を出歩こうという気にすらならず、僕はかろうじてベッドに移って横になり続けた。悲しみや苛立ち、それから悔しさや切なさが、順不同でひっきりなしに訪れ、僕は馬鹿正直にひとつひとつをしっかりと噛み締めた。
僕が悪い――。
やっと出てきたような気がした。でも紛れもなく真実だ。
僕がもっとうまくあっくんとの関係を育められていれば、僕たちは記憶なんか消す必要はなく、こうした今も消失に恐れることなんかなく彼女の家でホットミルクを飲んでいたかもしれないのだ。もうちょっとうまく関わることができていたら。
……いや、うまくなくてもいいんだ。
せめて普通に、ごく普通に他のクラスメイトと同じように人と接する基本ができてさえいれば、幼馴染の関係が崩れてしまうことは無かったかもしれないのだ。彼女を傷つけることなんて無かったかもしれないんだ。
床へ無造作に放られたジップロックを見る。彼女からくすねてきたきた、彼女目線のメモリーズ。
「……そういえば」
体をおもむろに起こし、ベッドから目いっぱい手を伸ばしてジップロックを手繰り寄せる。僕は手に取ったジップロックを開け、逆さまにする。2錠の錠剤は手のひらの上に落ちて、くるくると踊りながら順番に倒れていった。
僕はとうとうおかしくなってしまったのだと思う。
あっくんから僕はどう見えていたんだろう――ふとした疑問はみるみるうちに膨らんでいった。
疑問は欲になり、欲は渇望へと形を変えた。
次の瞬間、僕は手のひらのメモリーズを口に流し込んだ。
舌先で錠剤が横になる。そのままゆっくりと舌の奥へと移動をし、飲み込もうとして、
――怖いっ
「うぉぇぇっ! がはっ、かはっ……」
咽かえりながら僕はメモリーズを吐きだした。唾液と一緒に綺麗な形をした錠剤がシーツの上に落ちた。喉の奥に残った嫌な感覚を決して飲み込まぬようトイレへ急ぎ、指を突っ込んで吐いた。
不安だった。だから僕は何度も指を突っ込んで吐いた。喉が焼きついたように辛くなって不快極まりなかったけれど水は飲めなかった。
なんて恐ろしいことをやろうとしていたんだ。
彼女の本心を知ってどうする。何が今更できるという。
それに、まさか自分がその結果に耐えきれると思ったのか。彼女自身ができる精一杯の善意を踏みにじった男に、肯定的な感情が湧きおこるわけがないだろう。彼女の受けた痛みや憎悪、そして僕に対する失望や怒りをどうやったら受け止められるというんだ。
「この馬鹿が」
ふらついた足でベッドに戻り、吐き出したメモリーズをティッシュにくるんで捨てた。
ベッドの縁に座って無感情にスマホを点け、彼女とのラインを開く。当然のように何もメッセージが来ていないことを確認して、ため息とともにスマホをそのへんに放った。あと3日、実は短いようで恐ろしく長いかもしれない。
その時、ふとメモリーズが視線を射止める。
ジップロックでない、包装ケースに入った“ぼく”の物語。
僕はそれを手繰り寄せ、ケースから錠剤を取り出し、口に放り込む。そして今度こそ、喉に力を込めてしっかりと飲み込んだ。まったく……“ぼく”の思い出すら見届けることができないのに、彼女の思い出が処理できる訳がない。
食道に窮屈な感覚を抱きだして、僕は横になり目を瞑った。徐々に、時間をかけて、錠剤は体のなかに溶け込んでいく。
そして暗い視界は更に深くなって、やがてブラックアウトした。
<Episode 14>
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