第4話 僕は土下座マン
時刻は16時を回って少し経った頃。5時間目の授業をさぼってトイレに籠り、もう2時間以上が経つ。今日何十回目かのため息を吐いた。思考はまだマイナス迷路に閉じ込められたまま。当分はここから出られそうもない。
あの子は僕に『消えてくれない?』と言った。
あの子は沢井たちと友達だった。
元々悪いやつだった。
「そうだ、悪いやつだったんだ」
そもそも僕は彼女のことを何も知らない。
小学生の彼女しか知らないんだ。
しかも2回だけ。
しかもしかも、他人のフィルターを通した姿しか知らないんだぞ。
僕が勝手に期待してただけじゃないか。
そうだ、彼女は別にいいやつじゃなかったんだ。
「そうだそうだ気にすることはない」
でも……。
本当にあっくんなのかなあ。
あっくんだったらそんなこと言わないはずなんだけどなあ。
「あっくんだったら、ショックだなあ……」
思考はやっぱり同じところを旋回し続ける。
でも少しずつ答えは絶望の方向へと傾いていって、心臓はどんどん重みを増していた。
僕はあっくんという、生きる活力を失った気分だった。大袈裟だし情けない。でも本当にそんな気分だった。ここ最近の僕はメモリーズのおかげで毎日を生きられていたといっても過言じゃないから。
踏ん切りをつけて個室から出た。置物のように並んだ小便器の奥、曇りガラスから傾いた陽の光を感じた。これから家に帰るんだ。何もない、家に。
無感情に僕は教室まで足を運ぶ。廊下は誰も居ない。そりゃあ16時を過ぎているから当然なんだけど、ひとりタイムワープした気分だった。小さく苦笑して、僕は教室の引き戸を開ける。当然、教室も誰ひとり残っていない。そう思ってた。
しかし。
見慣れないうしろ姿が、髪を翻して振り向いた。
「あ、やっと来た!」
まさか。
ハラちゃんとやらが、まるで僕を待っていたかのような笑顔でこちらを見る。
唖然としたのも束の間、僕は心のなかでファイティングポーズを取った。さすがの僕も、もう傷つくのはちょっとだけ怖い。
「僕が、何か悪いことした?」
彼女の表情は一瞬だけ笑顔のままフリーズ、でもそれからすぐ、新品の笑顔に作りなおして首を横に振った。
「ううん、ひとこと言おうと思っただけだよ」
「ひとこと?」
「うん。消えて欲しいなんて私思ってないから」
胸が、感情の読めない高鳴り方をした。
「なんかさ、たまたま強くなっちゃうときってあるじゃん? 思いのほか言葉が強くなっちゃうっていうか……そんな感じかな」
「そうなんだ、別に、いいけど」
「ごめんね。嫌な思いさせて」
僕は彼女の話を聞いている間、いまもどこかで沢井たちが隠れているんじゃないかと思った。
でもそれは杞憂だった。僕が今対面している彼女の顔つきは、どうも嘘っぽさがない。
「きっかけは、僕だったから」
「え?」
「こっちこそ悪かった」
彼女はため息交じりに言った。
「言わされてたんでしょ?」
僕は何も言い返せなかった。
「それぐらいわかるから」
「……そっか」
*
結果だけ言おう。
僕は“一応”だけど、生きる活力は取り戻した。
消えて欲しいなんて私思ってないから――この言葉ひとつでこうも気の持ちようが変わるんだから本当情けないと思う。でも、仮に彼女があっくんだったとするなら、これからもメモリーズを使用していくうえで絶対に必要な言葉だった。現実の彼女を知ってしまった以上、いい人でなければ思い出の世界に胸を預けることができなくなるだろう?
とはいえ彼女のおかげで、現実世界で生きづらくなったのも事実だった。
あの土下座事件以降、僕に対するいじめは、より凝ったものへとスピード感を持って変移していった。
『僕はいつもあなたを性の対象として舐め回すように見ています。申し訳ありません』
土下座、土下座、土下座の日々。その日によってタイルの冷たさが変わるのが面白いと素直に思った。基本的にターゲットは、可愛いと言われているカースト中位以上の女子である。因みにさっきの言葉なんて生ぬるいほうで、酷いときはもっと直接的な単語を使う。
要は、君とアレをしてみたい……君にアレをしてほしい……みたいな感じだ。自慰行為のお供にしていると報告することもしばしば。(本当はお供にしていない)
当然、相手は黙ってない。汚い虫でも見つけたような目つきで、言葉の刃を思い切りぶつけてくる。視線も言葉の刃も身体の中枢まで侵食して、心臓は結構ズタズタにされた。もう最近なんて女子を見るだけで脈が急ぐときがある。
校内の半数に及ぶ存在を直視できなくなった結果、学校生活における僕の視界はうんと狭くなった。
「よう土下座マン」
背中を叩かれる。
誰かも知らない男が僕を通り越していった。
続いて、誰かも知らない女子がくすくすと笑い、通り越していった。
朝のごった返した昇降口、僕はもう空気じゃない。高校1年生の冬にして、陰キャのなかだったら最も有名な存在となった。でも逆に考えてみれば、彼女がいちばん最初で良かったかもしれない。悪評が広まった今に僕が同じことをしても、反応はもっと違ったものになっていただろう。
少なくとも放課後に謝ってくれることなんて無かっただろうから。
消えて欲しいなんて私思ってないから――こんな言葉も聞けなかっただろうから。
あっくんに会えなくなるという危機を僕は免れたのだ。そう考えれば、いくら現実が生きづらくたって大万歳だった。
僕にとって最も重要なことはメモリーズであっくんに会うこと。
偽の思い出だけが、生きる理由になっていた。
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