表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
37/44

第37話 思い出を彼女から奪わなければ




 目が覚めると、その直後にアラームが鳴動した。

 不愉快な朝が訪れていた。

 重たい心臓を胸に抱えながら体を起こす。部屋はどこか灰色でひんやりと張りつめた空気で満ちていた。


 頭のなかの霧がだんだんと晴れていく。これがただの悪夢ならば良かったのに――そんな感情とともに腹の底からため息を吐き出した。起きてから今まで、淀んだ水はどんどん胸の中に溜まっていくばかりだが、その正体が何なのかは分からない。


 ただ、じっとしていたらあっという間に胸の中はその汚れた水でいっぱいになって、溢れ出てしまうだろう。僕は危機感に駆り立てられるように慌しく朝支度を始めた。風呂場で給湯器のスイッチを入れ、洗面所で顔を洗い、それから歯磨きも済ませる。


 朝食は食べる気になれず、制服に着替えて家を出た。

 起きてからまだ20分も経っていない。史上最短記録だな、と僕はひとり他人事のように呟いた。


 外は世界が凍ってしまいそうなくらい寒かった。


 空はまだ夜からの脱皮が済んでおらず青空とは言い切れない。滲んだ茜色が消えてしまうにはまだ時間が掛かりそうだった。舗装路から外れた土の上には逞しい霜が立つ。雪が降ってもまったく可笑しくない、そんな冷たい朝。僕はただ無感情に最寄り駅へ向かって歩を進める。


 さっきまで溢れそうになっていた胸の中の淀んだ水は、いつの間にかその水位を下げ、少なくとも溢れかえる心配はなくなっていた。やっぱり寝起きの頭はクリアすぎるんだろう。冷静であり過ぎるが故、現実をストレートで直視してしまうのだ。


 片原さんは見てしまったのだろうか。


 昨日見るといっていたのだから、見たんだろう。

 あの最低な物語を、最前列でしっかりと。被害者側の立場で味わったんだ。


 ため息を腹の底から吐いた。吐息は白く凍ったと思いきや空中で散り散りなって消える。僕は繰り返し、何度もため息を吐いた。全然不快感は消えずに、むしろ出所の分からない怒りがため息とともにこみ上がってきた。


 僕は舌打ちを思い切り鳴らし、それから自分の頭を殴ってみた。かなり強めに殴ったはずなのにメモリーズのぼくが受けた拳骨のほうがずっとずっと痛い。その事実に僕はさらに腹を立てた。


 駅へ着き、改札を抜けてホームに下りたつ。時間がまだ早いせいか学生は見渡す限りどこにもいなかった。ベンチに座り、僕は頭を抱えた。


 どうして僕は――ぼくは――あんなことをしたんだろう。

 どうしてそれが最適解だと思ったんだろう。

 そして、ぼくはきっと未だにそれを最適解だと思い続けているのだ。

 彼女を突き放すことで彼女の平穏が守られたと、そう思っているのだ。


 分かる、分かるんだ。彼が何故そうしたのかが僕には手に取るように分かる。だって実際、ぼくとあっくんが一緒にいたことでトラブルは起きたわけだし、彼女も要らない注目を浴びることになったわけだ。だからぼくが関わらないほうが彼女の日常が守られることに違いはない訳だ。


 しかし、あれはないだろう。


 ――あっちへいけっつってんだよ、片原。


 せっかく助けようとしてくれたんだ。彼女は。それが彼女にとってどれほど勇気のいるものだったことか。ぼくが学校へ復帰することを嫌がった彼女が、あの教室で、たったひとりで立ち向かったんだ。


 しかも、2回もだ。

 それなのにぼくは。


 ――余計なことするんじゃねえよ。


 ――あっち行けよ馬鹿。


 最低だ。

 メモリーズとして、客観的にぼくの行動を見て、初めて分かった。


 でもメモリーズを見ていなければきっと一生気が付かなかったと思う。この自分の愚かしさに。勘違いに。自己満足に。


 静寂なホームに列車が轟音を立てながら滑り込んできて、僕はそれに乗車した。暖気に包まれた車内の端っこに腰を掛け、スマホをポケットから出す。ラインを起動して彼女とのトークルームを開いた。≪うん≫で途切れたトーク画面に、僕は躊躇いなく文字を打ち込んで送信した。


≪昨日、メモリーズ飲んだ?≫


 一縷の望みだ。

 十中八九、彼女はあの最低な思い出を見ているだろう。

 だが、もしもまだ見ていないのだとしたら……?


 僕はそれを阻止しなければならない。


 その可能性に縋った。祈るようにスマホを握り締め、そのままポケットへ沈ませた。

 鈍く、重い秒針が時を刻んでいった。

 

 1番乗りで教室に着き、時々ラインのトーク画面を無意味に覗いてみたりして時間を潰した。潰すというよりかはただ垂れ流しているだけかもしれないが。それから30分ほどして、本来1番乗りであろう生徒たちが数人教室に入ってくる。ひんやり冷たかった教室に少しだけ温もりが訪れたような気がした。


 その時、スマホが振動した。握ったままのスマホをポケットから出し、確認する。

 画面を見た瞬間、最初はどっちなのか分からなかった。


≪まだ見れてないよー≫


 まだ見れてない、というのはつまり見ていないということだろうか?見れていないということはメモリーズを飲んでいないということ?飲んでいないということはあの最低な思い出をまだ知らないということ?まだ間に合う?まだ間に合うんだな?


 僕は何度も自分に問い、確信を得る。

 そして呼吸が浅いまま彼女にメッセージを送る。


≪僕も、まだ見てない≫


 考えろ、彼女に飲ませない方法を。

 思考は空転ではなく、目的を乗せて回りはじめる。

 続けて、ラインを送った。


≪今日の夕方に飲もうとしてる?≫


 返事はすぐに届く。


≪うーん。多分≫


≪今日会えないか?≫


≪どうして? たいちゃんから誘うなんて珍しい!≫


 ひと息を挟む。いつの間にか速くなっている鼓動を落ち着かせる。生徒がひとり、ふたりと増えていく。


≪大した用じゃないよ。記憶が消える前に話したいこととかあるし≫


≪あと6日だもんね≫


 あと6日。その現実が胸を刺す。


≪放課後家行っていい?≫


≪家じゃなきゃだめ?≫


≪家がいい≫


≪りょーかい!≫


 そこまで決まったところで僕はスマホをポケットに沈めた。

 あとは放課後を待つのみだ。

 朝のホームルームまであと20分強。この何倍もの時間をこれから過ごさなければいけないのか。果てしなく放課後が遠い……。


 しかしそれは杞憂であった。彼女がメモリーズを飲んでしまうことをどうやって阻止するのか、そのことばかりを考えて時間を無視していた結果、あまりにも早く、そして呆気なく放課後の時間は訪れたのだった。





 鼓動は波を打っていた。


「座って」


 促されるがまま上座であろうダイニングテーブルの椅子に座った。


 デジャブだ。

 彼女の家のリビングはメモリーズのなかと見事に一致していた。


 淡く柔らかい柔軟剤の香りに、テレビとソファしかない素朴なインテリア、まるで真夜中のような静寂、小高い丘から見下ろす素朴な街並み。そのすべてが焼印のようにこびれついている記憶と重なった。あまりにもメモリーズのなかと一致しすぎていて、僕は一瞬いまが現実なのかどうか分からなくなった。


 それぐらいこの場所は、まんま“あの頃と同じ“あっくん”の家のリビングだった。


 メモリーズを飲まなければこの空間を思い出せないままだったのかと思うと、とてもじゃないけれど信じられない。それぐらいこの“あっくん”の空間に、僕の身体は、細胞レベルで反応してしまっていた。


「どうしたの?」


「あ、いや……」


 咳ばらいを挟む。


「……日が、伸びたよな」


 片原さんは窓のほうへ目をやる。

 夕日ではなく、ごく普通の午後の日差しが、彼女の力感のない顔を照らしていた。


「ほんとだね」片原さんは僕に向きなおして笑った。「メモリーズ飲んでると季節感覚おかしくなるよね」


「ああ」


「……もう3月なんだね」


 大きな窓から見える青白い空に、日没の気配はまだ見えなかった。


 たしかに、もう3月なんだ。メモリーズのなかだったら、もうとっくに暗くなっていて、彼女はあの桃色のカーテンを閉めにいっているんだろう。すたすたとすり足で。それからホットミルクを入れてくれて、一緒になってふうふうと息を吹きかけ、表面に波を立たせてからそれを飲む。それから少しばかりのふたりきりの夜を、他愛もない会話で心を擽りあったりして楽しむんだ。


 ――ねえ、結婚しても上手くいくかもよ


 ――え?


 ――私たちの話だよ


 ――ぼくたちはまだ子どもだろ


 どうして懐かしいんだ。


 なんでこんなにどうしようもなく懐かしいんだ。


 まだ思い出を得てから2ヶ月も経ってないのに、どうしてこんなに胸が潰れそうになるんだ。


 取ってあとからつけたような記憶に、僕はなんでこんなに心が揺さぶられているんだ。


 もう、勘弁してくれ。


「どうしたの?」


 はっとする。


「あ……あっくん」


「は? どうしたの?」


「あ、いや、か、片原さん」


「まあ別にあっくんでもいいけどさ」


「いや……悪い、間違えた」


 息を吸う。そしてなるべくゆっくり吐く。

 椅子にふかく座りなおし、姿勢を正してみる。

 それから、もう1度、しっかりと正面の片原さんを見る。


「たいちゃん?」


 大丈夫。大丈夫だ。僕はいつもの僕だ。

 そして彼女は片原さんだ。

 落ち着け……。


 もう1度ゆっくり息を吐いて、僕は片原さんに言った。


「そういえば、メールで話してた件だけど」


「ああ、何? 話したいことって」


 ポケットの中でジップロックを握り締めていた。




お読みいただき、ありがとうございます。

評価や感想を頂けると励みになります!

よろしくお願いします。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ