第33話 寂しそうな顔
たとえ心に負った傷が癒えなくとも、むしろ時間が経つにつれて悪化の一途を辿っていたとしても、時間は残酷なまでに一定のリズムで進むものだ。
僕は2日立て続けに、夜と朝の交代を見てしまっていた。
昨日と今日の違う点といえば、真夜中から雨が降り出したことだ。冬には珍しいシャワーのような強雨のせいで、カラスも小鳥も今日は朝の挨拶を中止したようだった。カーテンの隙間から見える空は薄っすらと闇が解け始めていて、重たい雨音が延々と響き渡っている。
眠ることを諦めた僕は、起き上がって風呂場に行き、熱いシャワーを長時間浴びた。長時間布団に籠っていた体から老廃物が洗い流されていくのは、それなりに心地よい。そのまま僕の悩みもすべて流れ落ちていってしまえばいいのに。
シャワーから上がってもなお、まだ支度を始めるには早かった。制服を着るだけ着て、あとは机に座って適当にネットサーフィンをして、コーヒーを飲んで、雨の具合を窓から確認してみたりして……必死になって時間を潰した。何もしないでいると、頭のなかはすぐに昨日の片原あゆみで満たされていってしまうから。
家を出る時間が近づいてくるとようやく眠気が襲いはじめ、僕は少しだけはやめに家を出た。体は節々がキリキリと痛み、寝不足によるSOSを訴えているみたいだった。
外は強い雨のせいで夜なんじゃないかと思ってしまうほど薄暗く、彩りは剥ぎ取られ、モノクロの世界が作られていた。側溝から薄汚い水があふれ出て、道路のあちこちで不規則に水たまりができ雨粒が跳ね返る。
駅に向かう人影はまばらで、恐らくこの雨だから皆バスに乗っていたり自家用車で送ってもらったりしているらしかった。懸命だ。僕だって送ってくれる人がいたら遠慮せずに送ってくれと頼むだろう。
駅にたどり着くころには、靴のなかはぐっしょりと濡れ、手足ともに指先は凍えてしまいじんじんと痺れて感覚がなくなっていた。
多くの人にとっては最悪な天候かもしれないが、僕は案外悪くない天気だなと思いはじめていた。
もちろん冬の冷たい雨は不快だ。不快に決まってる。
でも雨ごときで憂いていられる人はきっと、幸福な日常を過ごすことができている人たちなんだろうと思う。天気なんていう自分ではどうやってもコントロールできないものに怒りを抱いていられるんだ。それだけ幸せなんだろう。
苦しみを痛みで紛らわせるという手法があることを聞いたことがある。今日の僕はまさしくそんな感じで、この冷たくて不快な雨に負の感情をおすそ分けすることができたのだ。もしも今日が雲ひとつない晴天だったら、もう耐え切れなかったかもしれない。
靴のなかの水たまりに親指をちゃぷちゃぷと沈めてみる。できれば1日じゅう振ってくれないかな。望みというよりかは願いを、胸の中で呟いた。
学校では多くの生徒が靴下を脱ぎ、生臭い空気が充満した。それに加え湿気にまみれた教室内はどうも酸素が粘りっこくて、そこに居るだけで寿命が縮んでしまうような気がした。
ドンーー背中に衝撃が走る。
それなりに痛いパンチだ。僕の席を追い越していった沢井の背中を見て、いま殴られたんだと認識した。なんてことはない。そこに殴りやすい背中が合っただけだろう。沢井は入口の扉から廊下へ出て、人を殴ったことなんてもう忘れた様子で、誰かに向かって手を振った。少しして、見慣れたジュンヤの顔がフレームインをする。
日曜日、片原さんに向けられていた屈託のない笑顔が蘇る。
過去の友人ってなんだよ。
過去じゃなかっただろ、あの笑顔は。
次の休み時間、今度は片原さんが教室にやってきた。彼女は最前列に座る友人とひとつのスマホを覗き込んで楽しそうに言葉を交わしていた。ただ友達と会いたくて来ただけだろう。それからもちらちらと盗み見てしまう僕だったが、彼女はこちらに目をくれることもなく談笑に夢中で、予鈴が鳴るとそそくさと教室から出ていった。
孤独だ――初めて実感をもってその言葉を呟いた。
ふたりともやっぱり別の世界に生きる人なんだ。目で追っているのは僕だけで、ふたりの仲にああでもないこうでもないと想像を巡らせているのも僕だけ。
恐らくジュンヤは片原さんと仲良くなりたかっただけだろう。ただ直で誘えない理由があって僕を頼っただけだ。
そして片原さんはどういう理由か知らないが、もう僕と関係を続けるつもりが無くなった。(この前に)メモリーズを見るか聞いたときに回答を渋ったのは、また現実世界で僕なんかと跡を追わなければならなくなるからだ。
なんて憂鬱なんだろう。
なんて僕は馬鹿なんだろう。
きっとこうなることが嫌だったから、これまで何に対しても期待をせずにひとりで生きてきた。人生というステージは、僕にとってはハードルが高すぎるものなんだ。僕自身に対応できる能力が備わっていないから、それが分かってるからひとりで生きていくって決めていたのに。
頭ではバリケードを張り巡らせているつもりだったけど、いつの間にか、気付かないうちに心は門を開いてしまっていたのだ。
もうメモリーズなんて捨ててしまおう――午後の授業でそう決心した。
やがて学校が終わった僕は家路に就く。頭のなかはメモリーズを捨てる一心だった。沢井たちに捕まることもなく学校を出られた僕は、得体のしれない高揚感に包まれながら、強い雨のなか駅までを歩いた。決して楽しみなわけではないのに、そう錯覚させるほどの鼓動を身体の内側に感じていた。
駅のホームに下り、程々に歩いたところで白線の内側に並ぶ。ひと段落ついたところで、小さくため息を吐いた。半透明な吐息は空気と混ざりあい、散り散りに消えていく。線路の向こうを歩いている小学生の傘に無数の雨粒がぶつかり続けるのが見えた。まったくすごい雨だ。あの中を歩いていたなんて信じられなくなるぐらいに。
ふう――ため息をもう一度吐く。
そして僕はふと隣りを見た。それは何気ない行動だった。気配を感じていたわけでもなく、何かを期待したわけでもない。ただなんとなく、授業中になんとなく窓の外を眺めるようなそれぐらい意味のない行動だった。
だが、そこに片原さんが居た。
僕と同じ列に並んだ片原さんは、気まずそうに視線を外して、それから再びこちらの顔を見る。薄い唇が開きかけた、その瞬間。
「ごめっ、ごめん――」
僕は彼女に背を向けて走り出していた。頭のなかはもう真っ白で、思考を巡らせる余裕なんてない。追いかけられないよう、呼び止められないよう、僕はただただ走って彼女から逃げていた。
ホームの端っこまでたどり着き、肩で息をしながらうしろを振り返る。もう既に片原さんの姿は見えなくなっていた。ただ、ほっと胸を撫で下ろしたのも束の間で、頭のなかには僕が逃げた瞬間に彼女が見せたもの寂しそうな表情が残像のように浮かび上がった。
何故、君が寂しそうな顔をするんだ?
寂しそうな顔をする必要なんてないだろう?
そもそも、彼女はなんと言おうとしていたんだろうか。
偶然なのか、それとも最初から僕に何か伝えようとして同じ列に並んだのか。
それとも現実はもっとシンプルで、彼女もまた何気なくこちらを見て僕の存在に気が付いたのだろうか。
思考がまた鈍い音をたてて回転をはじめる。答えの出ない、ひたすら同じところをぐるぐる回るだけの回転だろう。やがてそれが空転となり、それから軋みだして止まってしまうまで、僕は考え抜く羽目になるのだ。
憂鬱だ。
僕は今夜も眠れないことをひとり決心した。
*
真夜中に彼女からラインが届いていた。
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