第32話 もう二度と誘わないで
家に帰ってきたのは21時を回った頃だった。
部屋の電気をつけて、力なくベッドの縁に腰掛ける。
「つかれた」
ため息と一緒に4文字の言葉が勝手に口からこぼれ出る。果てしなく長い1日に、心はもうくたくただった。うしろに手をついて無気力に天を仰ぐと、薄汚れた白い天井がいっぱいに広がって、だんだん思考と同化していった。
サーカスの会場で小競り合いをするふたり。
クリスマスツリーを揃って見上げるふたり。
あゆみとなれなれしく呼んだジュンヤと、それをなんとも思っていなさそうだった片原さん。
もう何時間か経った今でも、それらの光景は胸のなかに波を立たせてくる。
考えなければいい、いくら考えたところで答えは出ない、そう分かっているのに僕は思考を止められなかった。黒々した異物が胸にとどまり続けることが多分耐えきれないのだ。しかし異物はその中に居る片原さんごと吹っ飛ばしてしまわない限り、消えてくれない。それも、僕は心のどこかで理解をしていた。
落としどころは見つからないまま何十分と僕はベッドに座り続けた。
そして、床に置かれた包装ケースを見る。
――あと2錠。
メモリーズに残った思い出はあと2回しかない。
ここで僕にとある疑問が浮かんだ。これまでの自分を根底から否定するような疑問だ。
「そもそも……見る必要があるのか」
果たして、メモリーズを最後まで見る必要はあるんだろうか。最終的に彼女との過去を手離したことが分かっている以上、あと2回のメモリーズで良い思い出が味わえる可能性はもうほとんどない。
……というより、そもそも“良い思い出”なんてもの自体が僕の勝手な幻想だったのかもしれない。
あの頃のぼくは、疑う余地もなく片原あゆみに恋心を抱いていた。だから日常のすべてが彼女を中心に回っていたし、だからでこそイジメや孤独にも屈することなく立ち向かえていた――実際に立ち向かえていたのかは疑問が残るところだが――のだろう。
片原あゆみさえいれば、他のことなんてどうでも良かった。
――じゃあ片原あゆみがそこに居なかったら?
それはつまり、片原あゆみのなかにぼくが居なかったら? と同義だ。
彼女が本当はぼくのことなんてどうでも良くって、単純な情けで関わっていたとしたら、いとも簡単に思い出の評価なんて逆転する。幸福であればその分だけ不幸になるし、好きであればその分だけ嫌いになるだろう。
結局思い出のきらめきなんてものはぼく自身の恋心と、彼女に対する勝手な期待によってもたらされていたものだったんだ。
冷静に考えてみれば分かるじゃないか。
昔も今もいつだって周りから人気者で、心優しくて、容姿だって可愛らしくて、絵の才能があって、話をしても面白くて、そんな才能に満ち溢れた人が片原あゆみだ。何故、ぼくなんかが相手にされていると思ったんだ。
考えてみれば、ジュンヤへのぶっきらぼうな態度も対等な関係である証とは言えないだろうか。相手のことを信頼しているからこそ多少雑であっても関係が崩れる心配がない。
つまり感情に真っすぐ従うことが許されているということだ。
それに比べてぼくに対する態度はやっぱり優しい。明らかな違いに疑問を持つことが今日1日のなかで何度もあった。
僕はとある言葉を思い出していた。
誰が言ったのかも思い出せない、これまでの人生の中で然して重要でなかった言葉だ。
『優しさは余裕の証である』
人は心に余裕があるから人に優しくできる。逆にいえば、心に余裕が生まれなければ他人に対して優しくなんてできない。自分を守ることで精一杯の人が他人に気を配る余裕なんてできないのだ。
その言葉は今の僕にとって妙にしっくりくる考え方で、まるで粉薬のように思考のなかへ溶け込んでいくようだった。
つまり彼女は、僕と関わっているときは常に余裕があるということなのだろう。例えば小さい子どもや犬猫、病人だったりいじめられっ子に向けられる、いわば強者からの優しさのおすそ分けなのだ。メモリーズで手を繋いだことに対しても何も思っていなさそうなのが、その仮説を証明しているような気がした。
思い出の映像は灰色になっていた。
あっくんがぼくに向けた優しい眼差しが、片原さんが僕に向けた優しい表情が、心から切り離されて遠ざかっていく。そして離れていくなか彼女の優しさは憐憫へと変わって、僕の胸を抉った。気が付いた時、僕はベッドで仰向けになり目を瞑っていた。
気分は底まで落ちているのに身体は眠りへ逃げることを許してくれない。
次に外の世界へ意識を向けたとき、窓の向こうでは小鳥が朝の訪れを知らせてくれていた。
*
翌日、月曜日の午前中にスマホが鳴った。
ちょうど教壇の先生が黒板に向かって字を書いていた時だったため、僕はこっそりと机の下でスマホの画面を点ける。呼吸が既に浅くなっていた。僕に連絡をよこす人なんて限られている。
≪今日放課後、公園来れる?≫
片原さんからだった。
心臓は嫌な高鳴りかたをしていた。
しばし思考を巡らせる。しかししばらく考えたのちに僕は、その甲斐なく半分衝動的な返信を送った。
≪なんで?≫
表示された、自分が打った文章を改めて見てみると酷くみっともない。“なんで”の3文字に、彼女への媚び諂いが垣間見えるじゃないか。
≪話がある≫絵文字もなくそう届いた。
≪話ってなんだよ≫僕はすぐに返す。
≪5分もあれば終わるから≫
≪なんだよ5分で終わる話って≫
返信は無いまま、僕は放課後に公園へ向かった。
5分で終わる話ってなんだろうか。『もう会わないことにしました』とか『実はあなたのことが嫌いになりました』とか『もうメモリーズは見ません』とか……少なくとも何かの相談ではなく、もう既に決まったことの報告であることは間違いないだろう。
僕は5分間という枠に収まるネガティブなことをたくさん思い浮かべ、公園にたどり着いて、ブランコに腰掛けている彼女に声を掛けた。
「話って」
「ごめんね急に」
彼女の口元は綺麗に弧を描いていて、笑顔と言われれば一応笑顔になるようなそんな表情だった。
僕は、そして多分彼女も、相手が喋りだすのを待った。
太陽の光が真っすぐ僕たちの居る公園に降り注いでいた。
「あのさ」口を開いたのは片原さんだ。「実はね、かんたんなお願いがあって今日ここに来てもらったの」
僕は頷いた。とっとと結論を言ってほしいから。
片原さんがそれを察したのかどうかは分からないが、彼女はひと言で“かんたんなお願い”を言い切った。
「もう二度とジュンヤを呼ばないでくれる?」
「……それだけ?」
「うん」
「以上?」
片原さんは首を傾げながら「……どうしたの?」といった。
緊縛の糸が1本だけぷつりと切れて、心がふわりと軽くなる。
「ジュンヤ、そんなに嫌だった?」
「私はね。でもたいちゃんが仲良かったなんて意外だったよ」
「まあそうだろうな。でも、片原さんが仲良さそうなのも意外だった」
彼女は吹き出すように笑った。
「仲良くなんてないよ」
「良さそうだったけど」
僕も軽く笑う。
「良くないから」
「そっか」
遠くでクラクションの音がなった。うるさいバイクが唸りをあげながらだんだん遠ざかっていく。
少しして、彼女は口を開いた。
「でもなんでジュンヤなんか連れてきたの?」
「それは、えっとね」
「どうせ俺を呼んでくれって言われたんでしょ?」
「まあ、そんな感じかな」
「あいつの言いそうなことだもん」
あいつと呼ぶ片原さんは、やっぱり彼とはどこか親しそうだった。彼女は仲が良くないと否定していたのに、嫉妬の火が消えていない自分が情けなく感じた。
「ところでジュンヤとは幼馴染なの?」
「んー」
若干の間があった。その間ですら、僕の胸に負荷を掛ける。
「幼馴染なんかじゃないよ」
「ふうん」
「ちょっとした過去の友人って感じ」
そうなんだ、と返した。
ちょっとした過去の友人ってなんだろう。友達が居たことのない自分には分からない。昔は仲が良かったけど今は仲が良くない、みたいな話だろうか。それでジュンヤは、片原さんと仲直りがしたくて僕に頼み込んだ。
合点がいったような気がしなくもない。
少しずつ頭のなかの霧が晴れていく感覚がした。
「さて……帰ろっか」
彼女は音を立てずにブランコから降りた。
「今日は、メモリーズ見るか?」
「あー、メモリーズ?」片原さんはわざとらしくそう聞き返し、ほんの僅か、眉間にしわを寄せた。ように見えた。
ふたりの間に沈黙の間ができる。まただ。何もない時間なのに、この空白の時間が僕の胸を締め付ける。彼女はしばし考えたのちに、苦笑いを薄っすらと浮かべてこういった。
「今日は分かんないかな」
「分からない、か」
「じゃあ、またね」
ふっと、片原さんが視界から消える。まるで本当に姿を消したかのように、彼女は一瞬で視界から外れたのだ。歩くのが早くてもう何メートルか先を歩く彼女のうしろ姿には、この場所への未練や名残惜しさを1ミリも感じさせない。
何かがおかしかった。
「片原さん」
「……ん?」足を止めた片原さんが、顔半分こちらを振り向く。その顔はやはりいつも見せる力感のない表情とは違う。
「ジュンヤ……もう呼ばないから」
この言葉がいけなかったのだろうか。それとも言い方が縋ってしまっていたのだろうか。やっぱりジュンヤを呼んだことで彼女に嫌われてしまったのだろうか。僕はこの一瞬でたくさんの仮説を立て、無意識のうちに考えてしまっていた。
それぐらい、彼女は不自然に笑ったのだ。
「あはははは――」
やけに甲高くて、温度のない、まるで相手のことをすべて拒絶するかのような、どんなに甘い口説き文句もすべて無に帰してしまうような、そんな笑い声だった。
呆気にとられ、反応することも忘れ僕は立ち尽くした。
あはははは――って。
「その笑いなんだよ」
ようやく言葉を返したときには、もう公園には僕ひとりしかいなかった。
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