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第30話 クリスマスツリーの下で




 <Episode 12>



「すごい……」


 隣りでぽつりと彼女は呟いた。

 心のなかで激しく同意した。すごいという、たった3文字の感情表現すら思いつかなかった。


 人の流れに従って丘をゆっくり、味わいながら下る。甲高い歓声やらはしゃぎ声やらが、あちらこちらから聞こえてくる。嘘みたいに風が冷たくて、こぶしを作って息を吐きかけた。目の端からは涙が漏れてしまうほど寒いのに、壮大なイルミネーションを前にしたら、その寒さですらひとつの演出のように思えてしまうことが不思議だった。


「たいちゃん、これほんとすごくない?」


「うん。やばい」


「ね、やばいよね」


 ダイヤモンドが実った畑とルビーが実った畑、その間の狭い道を歩く。前後左右に延々と宝石が実っていて、どうやら本当に宝石の丘へ迷い込んでしまったようだった。期待をはるかに超えたこの空間は、もはやイルミネーションなんて言葉じゃ片づけられないだろう。


「ねえ」


「ん?」


「ほんとにやばいね」


「ああ、すごすぎ」


 あっくんは笑う。


「ははっ……ねえ私たち、さっきからやばいとすごいしか言ってないよ」


「ほんとだな」とぼくは笑った。


「ほんとだね」と彼女も笑っていた。


 人の群れが巨大なクリスマスツリーの前で止まった。多分マンションでいったら3階ぐらいはあるだろう。そこには既に多くの人たちが、まるで同じ団体で行動しているかのように、みんなで黄金に輝いているツリーを見上げていた。


 てっぺんには氷のような星が飾られていて、寒風に晒されているのが心地よさそうに見える。


「ここが目玉なんだね」


 彼女はそう言った。

 確かに、この場所だけ人の密度が桁違いだ。きっとみんな通りすがりなんかじゃなくて、ここを目的に歩いてきたのだろう。


「そういえばクリスマスだもんね」


「……気が早いけどな」


 とはいえ、もう来週から12月か。全然気が早くもないのかもしれない。


 この場所は、クリスマスになったらどれだけ賑わいを見せるんだろうか。まるで排水溝に詰まったごみのように、排出されずにどんどん積もっていく人の山を想像したら気が滅入りそうになる。今でさえ、四方八方人に囲まれているというのに。


「今でよかったのかもしれない」とぼくは苦笑した。


「そうだね、クリスマスだったら学校の人たちに会っちゃうかもしれないしね」彼女は冗談なのか本気なのか分からないようなトーンで言った。


「さすがにこんなところで会うなんて有り得ないだろ」


「有り得ないかな?」


 うしろを振り返ってみた。当然ながら知っている顔はどこにも見当たらない。ツリーに顔を戻したぼくを見て、彼女も倣うようにしてうしろの人ごみを振り返る。やはり知っている顔などは居なかったようで、苦笑いをしながら戻ってきた。


「なんか不安になっちゃうね。変なこと言ってごめんね」


「……いや、どうして不安になるんだ?」


「え?」


 なんとなく、彼女が不安になる理由を聞いておきたいと思った。


「なんとなく聞いておきたい」


「うん……えっとね」


 あっくんは、コホンと小さな咳をひとつ挟んで喋りはじめる。


「今の平和な生活が乱れていくことが、正直、不安」


「平和な生活って? 何に対してあっくんは言ってるんだ」


 彼女が何をもって平和といっているんだろう。その主語は果たしてどこを指しているんだろう。ぼくはあっくんの言葉の真意を欲しがった。


「うん、前にも言ったと思うんだけど、私って基本嘘だらけの人間になっちゃったんだよね。それで」


「ぼくは嘘だと思ってないけどな」


「うん、それでね、正直前にも言った通りで、たいちゃんが学校に来ることがちょっと憂鬱だった。本当は嬉しいのにそれを喜べない自分が居た。悪意を向けられるたいちゃんを見たくなかったし、それを見て見ぬふりする汚い自分ももう絶対に見たくなかった」


 汚い自分を見たくない。これがいちばんの本音なんだろう。なんとなく、そう思った。


「だから今も毎日が怖いんだ」


「いつ……ぼくがまたいじめられるのか冷や冷やしてるってことか」


 あっくんは深く頷く。ぼくも深く頷いて返す。


「ぼくも同じ気持ちかもしれないな。いつ、再びあっくんの目の前でいじめられるのか、正直怖い」


「そう、だよね」


「それが君を苦しめるのだとしたら、そのことが怖いだけなんだけどな。ぼくとしては全然無視してもらって構わない」


「それってどういうこと?」


「もうあっくんの気持ちは前回の遊園地で聞いてるから、それを知った上で学校に来てる。だから今さらいじめをスルーされたところで何も思わないよ。いじめ自体も慣れているからいつでも来いやって感じだし」


 ははは、とぼくは笑った。あっくん一切笑わなかった。


「たいちゃんは強いよね。そんな状況でもしっかり学校に来てる」


「強い? ぼくが?」


「強いよ思うよ。少なくとも私よりはね」


 強いという評価は、予想外というか掴みどころがないというか、どう受け取ったら良いものなのかもよく分からなかった。


「怖がってるのは私だけかあ」あっくんは視線を落として力なく言った。湿っぽい空気になる理由が、ぼくには分からない。クリスマスツリーに顔を戻すと、視界の隅っこで彼女は気を取り直したように言う。


「でも今日は、本当ここに来られてよかった」


 心からの言葉のように聞こえた。


「ああ、本当だな。ここを選んでくれたのもあっくんだったな」


「たいちゃんと来たかったからね」


「はは」


 胸がじわりと熱くなる。


「ぼくだって最初からここを知ってたら、君と来たかったと思う」


 ちょうど目の前でツリーを見上げているカップルが、互いにぶら下げていた手と手を絡ませた。キンキンに冷えているであろう艶やかな手と大き目の手が、いやらしく絡み合いながらも互い違いに指が食い込んで落ち着いた。


 ふたりはより一層身を寄せ合って、うしろ姿からでもとびっきり素敵な笑顔を浮かべているんだと伝わった。


 ぼくは頭がおかしくなったんだと思う。

 ふと視線を移したところに、あっくんの無防備にぶら下がった手があった。


 程よい白さで、程よい肉付きをして、程よい小ささをした、いかにも女の子というような手。ぼくは何も考えずに、その手に向かって自分の手を伸ばし、そして触れる。


 きっとこの寒空のイルミネーションというシチュエーションがそうさせたのだろう。または1日の疲れが冷静な判断力を鈍らせてしまったのかもしれないし、疲れに加えて夜という過ちを犯しやすい時間がそうさせたのかもしれない。


 きっと色々な事情が重なってしまって、いま確かになった“あっくんのことが好き”という気持ちが抑えきれなくなってしまったんだろう。


「え」


 ぼくに手を握られたあっくんは、全身をびくっとほんの僅か震わせた。


 小さな手は、重なった手から逃れるような恐らく無意識であろう動きを見せるが、それから少しして安心したように手の中で落ち着いていく。


 どきどきする。

 右手に伝わる柔らかい感触を無視することができず、心臓は熱い鼓動をひたすらに打ち続けている。ああ、ぼくはなんてことをしてしまったんだろう――そんな思いが興奮に支配されている頭の片隅をスッと掠めていった。


「たいちゃん……?」


 ぼくは顔をあげた。きっとあっくんが声を掛けてくれなかったら、彼女の顔を見ることなんてできなかっただろう。


 でも、顔を見ないほうが、ぼくは幸せだったかもしれない。


「……何だ」


「何って、こっちのセリフだよ」


 真っすぐツリーに向かっていたその表情は、口の奥に苦いものでも含んだような笑顔だった。きっとぼくは彼女が喜びをほほに浮かべているものだと勝手に決めつけていた。だから彼女の顔を見た瞬間、胸にたくさんの靄がかかった。


「ツ、ツリー……綺麗だな」


「うん」


 


******





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