第18話 久しぶりのふたりきり
<Episode 9>
ぼくたちは地元のファミレスに訪れていた。
当然、ぼくなんかはファミレスなど足を踏み入れたこともない。友達は居ないし、母親は仕事ばかりでそもそも一緒に外食をした記憶がない。だからいつもそこにあるはずのファミレスが、ぼくにとっては特別な空間に見えていた。
幸い、財布のなかには300円あまりが入っていて、メニューに目を通したところ1品料理ならば買えそうだった。ファミレスが思っていたよりも安いことに、行ったことがないなりに小さな感動を覚えていた。
あっくんもぼくも互いにドリンクバーを頼む。彼女にドリンクコーナーまで連れて行ってもらい、メロンソーダを入れて一緒に席へ戻った。ちなみにその途中、飲み放題であることも教えてもらった。背は低くなったくせに、彼女自身はどんどん大人の階段を上がっていた。
席についてメロンソーダをひと口飲んでからぼくは聞いた。
「それで、何の用がある」
声が裏返りそうになるのを堪えた。
「用?」
遅れて、胃に冷たい液体の感触を覚える。
「用があってぼくを引き留めたんだろ」
「用なんかないよ」
「っ……」
言葉を見失う。
「ただ昔みたいに話したかっただけ」
「そう、なんだ」
「最近学校にも来てないみたいだし」
彼女はひとり言のように、妙にクリアな声で言っていた。
せっかく高く積み上げた防御壁は使われることなく風にさらされる。急に、家で密会をしていた頃のあっくんが目の前のあっくんと重なりはじめていた。
「……でもなんで」
「なんでって、いま理由言ったじゃん」
「そうじゃなくて、なんで昔みたいにって」
「そんなの分からないもん」
「いや、誘ったのそっちだろ」
「なんで理由がなくちゃいけないの?」
「別にいけないとは言ってない」
「じゃあ黙っててよ」
黙ってたら意味がないだろ。そう思わず突っ込みたくなったけど、もう言い返すのはやめておいた。
なんとなくもう言い合う必要はないと思った。ぼくを呼び止めたことに特別な意図はない。それが分かったから取りあえずは。
時計の針は8時を回る。厨房から聞こえる物音は忙しくなっていき、見渡してみると客席は殆ど埋まっていた。そのほとんどが大人で、大学生風の男女であったりサラリーマン風の男であった。大人が活動を終えて晩飯にありつけるのがこのぐらいの時間なのだろうか。そんなことを意味もなく考えたりしていた。
「ホットミルク」
「え?」
「ここには、無かったね」
あっくんは無邪気に笑って、そう言った。
心臓は掴まれたかのように反発した。
「そ、そうだな」
何故彼女はそんなことを言い出したんだろうか――そんな疑問が頭のなかには展開されていた。言葉ひとつひとつを、投げつけられた爆弾のように分解して解析をしようとする、そんな自分が嫌になる。ぼくは昔からそうだっただろうか。
小学校の体験学習で、犬小屋を抜け出して一緒にちょうちょを眺めていたとき。ホットミルクを彼女の家で飲んでいるとき。ぼくはあの時からこんなに言葉ひとつひとつを細かく捌いていたんだろうか。
「ねえ、どうしたの?」
「ぼくは、ヘンかな?」
「ううん」
あまりにもあっさりした返事だった。
「でも、だからといって私もヘンじゃない」彼女は噛み合わない理由を説明しているように続けた。「というよりもこの世界がヘンだと思う」
冗談を言ってるのかと思った。でも彼女の顔は真剣そのものだ。
「多分だけど、この世界に合わせようとするからおかしくなっちゃうんじゃないかな」
「そんなことあるか?」
「だって現実に、私たちは上手くやっていたでしょう?」
「昔は、ってこと?」
「そうそう」
あっくんの大袈裟な頷きが、なんだか優しい。
「たいちゃんはね、真っすぐなんだよ。きっと」
「真っすぐ?」
「うん。こう、なんていうんだろ、変化球が投げられないんじゃないかな」
「野球なんてやったことないくせに」
ぼくは軽く笑った。彼女はそんなぼくを見て、ほんとだねと言いながらぼく以上に声を上げて笑った。
そしてひとしきり笑ってから、彼女は笑いの余韻を残しながらも、真面目な顔つきをして続きを話した。
「みんな変化球が好きなんだよ。曲がり過ぎちゃって何を投げたのか分からなくなってる」
「よくそんな難しい球、受け取れるな」
「逆じゃない? そんな球ばっかり受けてるから、ド直球が取れなくなっちゃう」
「意味が分からないな」ぼくは一蹴した。「何を投げたのか分からないような意味不明な球を取れるようになって、直球が取れなくなるのか?」
そんな球、中身がない。空っぽじゃないか。
「私のイメージね、喋っていい?」
「どうぞ」
「変化球はついていくのに必死なの。だから最初は取れない。でも段々とこの人がどんな球を投げるのかが分かってくるじゃない? そしたらだんだんと球についていくことができるようになる」
多分だけれど、彼女の言っているそれを、世間では“適応能力”というんだろう。
「ついていくことができるようになったらあとは簡単でしょ。取るだけなんだから」
「野球ってそんなに簡単じゃない気がするけどな」
「みんなが会話で投げる変化球は、曲がりくねってる代わりに軽いんだよ。そこに心がちょっとしか乗ってない」
「なるほど。だから取りやすいと」
「でもだから問題なんだよ」
彼女は続ける。
「そんな球しか投げてこないから、直球が受けられなくなるの」
「重たいから?」
「その球には、その人の真実が乗ってるでしょう? 薄っぺらい変化球ばっかり取ってるからド直球なんて重たくって受けきれないんだよ。その結果どうなるか」
「どうなるんだ?」
「ぶつかるでしょ? 取れなかったら」
「……痛い?」
「痛いよね」
だいぶ遠回りした感じがするけど、彼女のたとえ話はとても秀逸に思えた。少なくともぼくにとっては限りなく。
「つまり周りの人間にとってぼくは、痛みを与えてくる嫌なやつってこと?」
「それは分からない」
そこまでの確信が持てていない彼女が少しだけ不思議だった。
「でも少なくとも、変化球にして優しい球を投げることが常識なんだと思う」
「なるほどな。ぼくは非常識ってことだ」
「いろいろ引っ掛かるけどそういうことかも」
あっくんは極論に呆れたように、軽く笑った。
そんな彼女に対してぼくも自虐的な笑みを浮かべた。
だが、一瞬不安な思いが頭を掠める。
「いや……おかしいんじゃないか?」
「……え、何が?」
彼女はちょうど小ぶりなジップロックから手のひらに錠剤を落としており、どうやらそれを飲もうとしているところだった。
敵意を感じ取ったのか、表情から笑みの面影がきれいにさっぱり消え去った。温度のなくなった瞳にぼくは詰問する。
「君の説明を真に受けるなら、ヘンじゃないのはぼくだけになるんじゃないのか」
「どういう意味? んっ……はぁ」彼女は錠剤を口に入れ水を流し込んだ。
「……それ何?」
「かぜ薬。治りかけだけど」
なんでジップロックなんかに入れてるんだよ。
「……さっき君は“私も”ヘンじゃないって言った」
「そうだよ?」
「つまりは君も直球しか放れなくて周囲から拒絶されてる存在ということになるけど、それは嘘じゃないか」
「そうだね。私はたいちゃんほど極端じゃないよ」
「君はしっかり学校社会にも適応してる」
いじめが行われている目の前で友達と談笑している彼女の姿が、脳裏を過る。
「確かにそう見えるのかもしれないね」
「しっかり学校の波に乗ってるよ君は。おめでとう。年上の彼氏だってできたんだろ、十分すぎる適応だ」
「まあ彼氏はとっくに別れたんだけど」
吐き捨てるような言い方だった。
ぼくが言葉を見つけるのに時間が掛かっていると、彼女は淀んだため息をついてから言った。
「確かに白か黒かでいったら、私には多少黒が混じってるかもしれない。でも真っ黒じゃないから、私にもたいちゃんの気持ちはわかると思う。要は、ひとりじゃないって言いたかっただけ」
「……そっか」
「トイレに行ってくる。そしたら、帰ろうね。付き合わせてごめんね」
付き合わせてごめんね、か。
あっくんが席を立ってから少しして、テーブルが振動した。机上に置いたままの彼女のスマホだった。そして通知を受けたスマホの画面にぼくの目は奪われてしまった。
待ち受け画面に、見覚えのある雪だるまが写っていたのだ。
不細工で、まるで妖怪のような雪だるまが。
何故――。
またぼくは、理由を探していた。まるで幸福を拒むかのように。
テーブルに置かれたままのジップロックをなんとなく手に取って、彼女の代わりにじっと見つめる。
しばらくして彼女はトイレから戻ってきた。そのときはもう既に画面は黒くなっていた。結局もっともらしい理由を見つけられず、そのままの流れでぼくたちは会計を済まして店を出る。
真っ黒な空をした外の空気は、僅かに水気を纏っていて朝露のようだった。
帰り道、あっくんが気まずそうに言った。
「あのさ」
「……ん」
「無理ならいいんだけど」
「うん」
「学校は無理しなくていいから、時々、こうやってさ……」
すこし間があった。灯が立ち消えてしまいそうな気がして、ぼくは思わず言った。
「ファミレス以外が……いいかも」
上手く声が出なかった。
「うん。じゃあ……ファミレス以外のところで会お?」
「でも、別にファミレスでもいいかも」
「どっちだし」
「どっちでもいいや」
あっくんは怒ったような笑ったような顔をした。
ぼくは正直、どちらでもいいのかもしれない。ただふたつ返事で自分の意思を表すことが、微妙にめちゃくちゃハードルが高いだけなんだ。
「じゃあまた連絡するから、はい」
あっくんはスマホの画面をぼくに向けた。
「ん?」
「ライン。まさかやってないとか?」
「ああ、やってないな」
「じゃあいま、インストールして」
「まじかよ」
ぼくは手取り足取り教わりながらラインをインストールした。初めて自分のスマホに見るラインアプリのアイコンは、なにかとてつもない可能性を秘めた扉への入口のように見えた。
分かれ道にたどり着き、ぼくとあっくんはぎこちなく手を振り合い、互いの帰路に就く。街灯のない真っ暗な道は、さっきいた場所よりも空気がひんやりと冷たくなっていた。とぼとぼ、力なく歩いて、やがて自宅の団地に着く。
階段を上がる手前で、スマホが鳴動した。
『今日はありがとー』
意に反して、表情筋が崩壊していく。全然嬉しくなんかないからなとぼくは何度も自分に言い聞かせ、慣れない画面で返信をした。
『うん。こちらこそ。』
ラインなんて、もっと言えばスマホなんて不要だと思ってた。いやむしろ、振り返ってみればぼくは完全にそれらの通信手段を敵視していた。それなのに笑えることにぼくは、このたった数時間……いや要所に限れば数分ほどでコロリと変わってしまったんだ。
それが何だか情けないし、これまでの自分に申し訳ない。罪悪感もしっかり胸の近くで渦を巻いている。
でも、もう数時間前の自分には戻りたくない。切にそう思った。
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