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第12話 ≪密会しようよ≫



 目が覚めた時のことだが、僕は底の深い悲しみに襲われた。心の鎮痛剤があるなら飲んでしまいたいほどの、堪えがたい悲しみだった。これからもうあっくんに会えなくなるのかと思うと胸がどうにかなってしまいそうだったのだ。


 しかし夢の余韻が波のように引いていくなかで、ぼくはメモリーズがまだたくさんあることを思い出した。


 メモリーズはまだ残っている。

 気になって、床に投げ捨てていたメモリーズを数えてみた。まだ9錠も残っていた。ということは、美術部をキッカケに仲が終わったわけではないということだ。これから先もあっくんとの関係が続いていく。そのことが痛いぐらいの安堵と幸福を与えてくれた。


 しかし感情というものは忙しい。今度は続きが気になって気になって仕方なくなった。いずれ終わりが来ることは忘れて、僕はあっくんとのこれからについて幾つもシナリオを描いていった。ご都合主義の酷い物語だけれども。


 油断していると現実世界の彼女――片原あゆみも時どき現れた。無意識にするすると彼女は脳内に入り込んで、僕もまた彼女に質問をする。今も絵は描いているのかとか、美術部って楽しかったのかとか。すると途中で現実の彼女であることに気が付いて、僕は大慌てで頭のなかから振り落とすのだった。


 そして学校にいる間もメモリーズの後遺症は止まらない。僕は午前中ほとんどの時間を空想に費やし、今が何時間目かも分からなくなったりした。だから時折降りかかる暴力や罵声が、唯一僕を現実世界に繋ぎ止めてくれていた。


「お前さ」


 床に押さえつけられた状態で髪を持ち上げられる。首が痛い。


「死ねよ」


「いや……」


 暴力に意味はない。

 最近、土下座の強要に飽きてきたのかシンプルないじめに戻ってきた。でも僕にとってはこの意味のない暴力のほうが余程楽だった。


 奴らもバカじゃない。傷や痣を作るとばれるから、ぎりぎりのところで暴力を楽しむことになる。そうすると精神的ないじめのほうがずっとずっと加減がなくて、より厳しいものだったことに気が付くのだ。


 やがて昼休みになった。

 僕はひとり最上階のトイレで時間を潰していた。無法地帯の教室から逃れるためであり、実際ここのトイレは休み時間の間、ほんの2回ほど人の出入りがあったぐらいで、僕はひとり脳へ入り込んだ情景に身を預けることができた。


 だからこそ、予鈴が鳴るまでの時間もあっという間だ。

 僕はトイレを出て現実の居場所へ向かう。がらんとした最上階の廊下はコンクリートの無機質なにおいがして人間味がない。本当は足を止めたいけれど、僕はひと思いに廊下を抜け、階段を下る。止まったらもう人の居るところには戻れない気がした。


 教室に戻る途中、片原さんにばったり会った。

 下から上がってきていた片原さんは足を止め、こちらに向かって手を振った。満面の笑みだった。


「あ、あのさ――」


 僕が口を開いたその瞬間、彼女は颯爽と階段を駆けあがって僕とすれ違う。


 唖然としてうしろを振り返ると、そこには友達と戯れている片原さんがいた。ふたりの女子は甲高い声でふざけながら階段を上がり見切れていった。


「ははっ」


 嘲笑は自分に対してだ。

 現実を受け入れていると思っていたのに、どうやら僕はまだメモリーズの世界から這い出てないらしい。


 彼女はあっくんじゃない。片原あゆみなんだ。

 片原あゆみは、あっくんと同じ人物だけど、あっくんではない。

 ぼくとあっくんの関係はこの世界において、もう無かったことになってるんだから。





 放課後、家に着いたタイミングで彼女からラインが届いた。


≪昼休みのとき何言おうとしたのさ≫


 僕は靴も脱がないまま、しばらく悩んでから返した。


≪別になんでもない≫


 するとすぐに返信が来た。


≪密会しようよ≫


 一瞬、メモリーズの世界に居るのかと思った。

 僕はその言葉にひどく揺さぶられながらも辛うじて返事をした。


≪意味が分からない≫


≪最上階の踊り場で待ってる≫


≪なんで?≫


≪なんでもいいから≫


≪分かった≫


 僕は帰ってきたままの体で家を出る。

 小走りで駅に向かうなかでふと思う。何を僕はやっているんだろう。


 密会しようと言った片原さんの魂胆も分からなければ、会いに行く選択をした自分自身も分からない。これから何が起こるのかも、何を起こしたいのかも、僕たちの関係性も、淀んだ胸の内の正体も、何もかもが分からない。


 強いていえば、ただその答え合わせがしたいがために急ぎ足で駅に向かっているような気はした。


 学校に辿りついて最上階まで上がる。すると屋上の手前で、片原さんが座っていた。


「おつかれー」


 心臓が収縮を強くする。


「あ、うん」


「こっち座ってよ」


「……」


 僕は言われたとおりに階段の1番上まで上がって、彼女の隣りに腰を下ろした。タイルは冷蔵室のようにひんやりしていた。


 昼間も香った、甘いシャンプーのにおいが鼻に纏わりつく。


「ねえ」


「何」


「なんか不思議じゃない?」


「何が?」


「メモリーズみたいだよね、こうやって内緒で会ってんだよ」


 それは違う。

 思わず僕は反論を入れる。


「呼ばれたから来ただけだよ」


「経緯はどうでもいいよ」


 彼女は静かにそう言い返した。なんだかあっさり言い負かされたような気がした。

 屋上の手前は空洞のようにしいんと静かだった。遠くでだれかのはしゃぎ声が反響していて、それこそメモリーズのなかの別校舎で過ごしているみたいだ。


「ところで、なに?」


「なにって?」


「僕を呼んだ理由だよ」


 彼女は何を考えているのか分からない、綺麗に整えられた笑顔で僕の顔を見た。


「昼間、喋り損ねたから」


「……なんだそれ」


「ごめんね、友達と居たからさ」


「別にいいよ。ただなんとなく、挨拶しようとしただけだから」


「そっか」


「うん、そう」


 人気のない階段に静寂が返ってくる。

 そうなるとやっぱり遠くの反響した声を拾い、僕の思考はメモリーズの情景と重ね始める。


 別校舎の廊下であっくんと過ごす昼休み。

 どこかから聞こえてくるはしゃぎ声は危険地帯そのもので、ぼくはあっくんの隣りから離れられそうもない。そこは最も心が落ち着ける場所であり、言ってしまえば形を持たない家のような居場所だった。


 それでも時は残酷でいて冷静だ。あっという間にぼくはその家を追い出され、ひとり狂気に満ちた空間へ帰らざるを得ない。


 毎度毎度、あの瞬間は苦しくて切なくて胸がじりじりと痛む。それだけじゃなく彼女と過ごしたことを後悔すらする。きっとメモリーズのなかのぼくにとって、あっくんという存在はそれだけ価値があるということなんだろう。


 美術部をキッカケに彼女から離れる決断をしたのは、その究極の形だ。

 ぼくはきっと、怖かった。

 自分自身に価値がないことが十分に分かってるからこそ、このまま彼女と一緒に居続けることが怖かったんだ。


「拗ねてる?」


「……え?」


 片原さんは膝に頬を埋めながらこちらを見ていた。


「なんで僕が拗ねるんだよ」


「うーん、なんとなく? 昼間のこと怒ってんのかなって」


「そんなみっともないことするかよ」


「みっともないの?」


 なんだか鬱陶しかった。

 僕は立ち上がって言う。


「もう帰る」


 返事も聞かないで階段を下りようとしたのだが、片原さんは間髪入れずにこう返した。


「じゃあ私も」


 体のなかにあるスイッチを押したかのように、僕の足は止まった。彼女はそうなることが分かっていたんじゃないかと思った。


「帰り道、一緒じゃんよ」


「たしかに」


「よいしょっ……行こっ?」


 肩を並べた片原さんが思っていたよりも小さい。もしかしたらあの頃よりも、僕たちの身長差は広がっているのかもしれない。


 昇降口を抜けたところで、片原さんは肩をすくめながら言った。


「てか、たいちゃん意外と大きかったんだね」


「……」


 僕は分かりやすい無視をしてしまった。ここで気の利いたセリフが笑顔で言えるなら僕の人生はもっと違っていたんだろう。


 外は寒かった。空はいつの間にか暗がりに飲み込まれて、深海のような色へ染まっていた。そういえば、現実世界は冬のど真ん中だったんだ。


「寒いね」


「うん」


「なんだか季節感、忘れちゃった」


「……だな」


 駅から電車に乗って、少しの間揺られて僕たちは最寄り駅に着く。駅を出て歩くとまだサラリーマンは少なくて、同年代の学生や大学生が多かった。それでもバス通りは渋滞が始まって、建ち並ぶ家には光が灯った。どこからか野菜を煮込んだ匂いが漂い、小さな商店はシャッターをもう閉めていた。


 隣りに片原あゆみが居ることが、どうしても不思議だった。

 でも仮に隣りがあっくんだったとしても“僕”は違和感を覚えるんだと思う。

 だって僕のこれまでの人生で、女の子と一緒に帰るなんてあり得ないことだったから。


「この町ってさ、やっぱ田舎だよね」


「なんで?」


「まだ夕方だよ? 静まり返るの早いって」


 ただし彼女がそこに異物のように存在しているのかというと、そういうわけではない。僕はなんていうか、頭では彼女の存在を受け入れられないけれど、心ではしっかりと彼女の存在を受け入れているような気がした。


 風が冷たくて指先がかじかんでいるのに、どうしてか胸の底がじんわりと温かくて、寒空の下に居ることが苦ではない。頭でしか解釈を考えられない僕にとって、それはやっぱり不思議なことだったし、素直に喜べることでもなかった。


 何故だろうか、足取りは自然と重くなっていく。

 これは僕の人生だろうか? ふと思う。

 隣りに人の――女の子の気配を感じながら帰り道を歩く。


「どっちの道から行く?」


 声のほうを向くと、その女の子は笑ってる。ちゃんと僕のほうを見ていながら。


「……どっちでも」「おっけ」


 僕は、この現実に翻弄されていた。

 ひとり異世界に迷い込んだ気分になっていた。

 ほっといていたら呼吸の仕方も忘れそうなぐらいだった。


 過去の僕、僕たちはどうだっただろうか。多分だけど、実際にはもっともっと甘美な時間が流れていたんじゃないか。過ごした時間も密度もずっとずっと濃くて、それでいて互いに心を許していたんじゃないだろうか。


「……なんで売ったのかな」


「え?」


「思い出」


「そんなの、私が知ってるわけないでしょ」


 疑問は底が見えないぐらい深い。

 過去の僕が、どうしたら彼女との時間を無かったことにできたのかが、皆目見当もつかない。それを売ったことで恐らく金を得たわけだろうが、ただ金になるから売っただなんて飲み込めるはずもなかった。





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