第11話 嘘つきは泥棒だよ
人間は脳を、一生で50%も使えてないんだと小学校の頃の担任が言っていた。つまりはもっと勉強をしなさいと言いたかったんだろう。詳しい内容は覚えてないけどもっともらしい説のように感じたし、その時はきっと鵜呑みにして信じていたんだと思う。
だが信じてしまったのは、僕が何も考えていない人間だったからだ。少なくともここ最近の僕だったらまずそんな出まかせの嘘には引っ掛からないだろう。
脳は出口の見えない思考を繰り返していた。
何故彼女は思い出を売ったんだろう。
何故僕も思い出を売ったんだろう。
何故僕たちは無かったことにしたかったんだろう。
初めは自分の意思であれこれ考えていたつもりだけど、いつの間にかそれらが頭のなかを占拠するようになって順序は逆転した。僕はただただ考えざるを得なくなり、強迫観念に支配されて頭のなかは片原あゆみに関する事柄でいっぱいになっていった。何も考えないということを脳は許さなくなってしまったのだ。
もはや頭はパンクする元気すらない。これじゃあ50%どころか、大人になる前に脳を使い切って死んじゃうんじゃないか。
そんなバカげたことを考えるぐらい、僕の脳は寝ても起きてもフル稼働だった。延々と回転を続ける歯車のように、思考は意図と無関係に回り続けた。
全然想像がつかないんだ。
あの七色の思い出を手離してもいい理由が。
多少メモリーズのせいで補正が掛かっているとはいえ、まるで別の世界に生きる誰かの物語を、頭のなかのスクリーンに映し出しているような感覚だ。あれが僕の実体験だなんて正直今でも信じられないし、たとえ今じゃなく、大人になってから聞いたとしても信じられなかったと思う。
あまりにも幸福だ。僕にないものをあいつはすべて持っている。仮にメモリーズがあまりにも不幸な物語だったら、そっちのほうがよっぽど僕は信じられたんじゃないだろうか。
そんな現実と乖離した物語を、僕に不足しているものすべてを詰め込んだような幸福を、果たして本当に僕は捨てたんだろうか?
納得のいく仮説を考えるにはちょっと想像力が足りそうもない。どう記憶を掘り起こしても僕の生きてきた人生にアレを捨てられる余裕などはない。
改めて言う。
思い出を売るということは、すべて無かったことになるということだ。
事実として僕はこのメモリーズに巡り合わなければ、ずっとあの過去を知らないまま生きていくことになっていた。当然片原あゆみという名前も知ることはなく、廊下ですれ違っていることも、同じ最寄り駅を使っていることにも、気が付かないまま卒業を迎えただろう。
そして僕と彼女の関わりは無かったことになったまま、幼馴染という存在は隠されたまま、互いにひっそりと人生を終えていた。
そんなこと悲しすぎるじゃないか。果たして中学生の自分が、どうやったらそんな思い切った断捨離ができるのか。
何故だ。何故なんだ。
何があったんだ。何をしたんだ。何をされたんだ。
僕はベッドのなかで何十回目か分からない寝返りを打つ。若干ひんやりしているが、どうせすぐに体温が移って居心地が悪くなるんだろう。朝まであと何時間なんだろうとふと思う。
もう疲労困憊だった。しかし、この疑問を解決する方法はひとつしかない。メモリーズを使用し続けることしかないのだ。答えはすべてメモリーズに入っているのだから。ならば――とメモリーズに手を伸ばそうとしたのだが、今日はもう飲めないことに改めて気が付いた。
奥歯に強い歯がゆさが襲ってきて、歯が折れるぐらいの力で噛み締めた。歯茎が地鳴りのように震える。それでも足りずに目をぎゅっと瞑ると、今度は眉間に針が刺さったような痛みが走った。1分、1秒は、果てしなく長い。
なんだかメモリーズが1日1回しか使用できない理由が分かった気がする。
そして僕は改めて誓った。自分だけは絶対に薬物に手を染めないと。
カーテンの隙間に見える暗闇には、いつの間にか青い光が混じりはじめていた。
<Episode 5>
「美術部?」
「うん。部活と言ってもかなり自由らしいけどね」
どうやらあっくんは部活に入るらしい。
入学してから2か月近く経った今から部活に入る生徒は、たぶんそんなに多くはない。
「絵、描きたいのか」
「そんな感じかなっ」
「ふうん」
絵うまいもんな、と言いかけてやめる。
今日も別校舎の最適な場所には、はしゃぎ声の反響が僅かに届いていた。相変わらず楽しそうで元気いっぱいでちっとも羨ましくない声だった。嵐を遠くから傍観しているようで、さながらぼくは避難民であった。
「ねえ」
袖が掴まれる。
心臓がジャンプした。
「なんだよ」ぼくはあっくんの手を振り払う。
「えーめっちゃ拒否ってるじゃん」一瞬、彼女は悲しそうな表情を浮かべた、ように見えた。
「用件を言えよ」
「なんか最近ヘンじゃない?」
なんとなくだけど、何が言いたいのか分かった気がする。
「ヘンじゃないよ」
「嘘」
あっくんは口を尖らせた。
「嘘じゃない」
「だって即答するってことは自覚あるんじゃん」
「いやいや」
「嘘つきは泥棒だよ」
嘘なんかついてない。ぼくは最近ヘンな訳ではなく、ずっとヘンなんだ。普通の君との違いがいまになって顕在化しただけで、ぼくはずっとヘン。だから『最近』は間違ってる。
「明日」
あっくんが言った。
「一緒に美術室行こう?」
「えっ、ぼくも?」
「うん。ぼくに言ってるんだぞ」
「いやそれは分かるけど」
「けってーい! じゃあ、あした放課後にここ集合ね」
「……強引なやつ」
まだ行くなんて言ってないのに。
でもたぶん、ぼくはどのみち行くことになっていたんだろう。彼女に誘われた時点で、恐らく断るという選択肢は持ち合わせていない。その理由はなんとなく考えないようにした。
やや経って予鈴が鳴った。
今日はあっくんから立ち上がって、ぼくはうしろ姿を見送った。
軽く手を振ったあと、彼女は陽気な足の運びで遠ざかっていく。胸がなんだかじりじりと痛くて、今度は雷ではなくて電流を流されているようだった。廊下の奥、ずいぶんと小さくなった彼女はこちらを振り返ることもなく階段へと見切れていった。
あっくんが、なんだかあっくんじゃなくなっていく――。
そんな訳ではないのにどうしてもそんな感じに思っちゃうんだ。今までカッチリはまっていたはずのパズルのピースが、時間の経過とともに歪みを見せていくように。
これから先、彼女はどんどん遠くなっていくだろう。手が届かなくなって、やがて声も届かなくなって、最終的にはその姿さえも見えなくなる。階段へ見切れていった彼女のようにぼくはその姿をただ眺めることしかできない。
「なにを考えてるんだ」
ふっと意識が廊下に戻ってきて、ぼくは苦笑した。
教室に戻ろうと立ち上がる。ちょっとだけ眩暈がした。少し歩きはじめるとぼくは再び空想の世界に浸かっていった。
もしもあっくんが居なくなったら――。
根も葉もない妄想で、ぼくは精神的な自傷行為を繰り返していた。
どうやら美術室は別校舎にあるみたいで、しかも最適な場所のひとつ上だった。運命的だねなんて冗談をいう彼女を無視しながら階段を上がり、美術室にたどり着く。彼女が控えめにノックをすると、幾らかの間をおいて引き戸が静かに開いた。
「はい?」
不思議そうな顔をした男子生徒が出る。まるで夜中に自宅のインターホンが鳴って出るときみたいに恐る恐ると。
「あの、入部希望です」
「ああ。どうぞどうぞ」
男子生徒は綺麗な顔をクシャっと崩して僕たちを招き入れた。
まだ美術室には誰も居なくて、画材のひとつすら散らかってない。等間隔に机が並べられて、あまりに綺麗なそのさまは後光さえ差せばもう朝の教室だった。
「まだ誰も来ていなくてね。どうぞ座って」
ぼくたちは促されるまま適当なところに隣同士で座る。
「はじめまして、3年の川西です」
「はじめまして、片原です!」
「は、はじめまして」
3年生にしてはちょっと幼い、子どもらしさの抜けない顔立ちをしていた。だからか清潔感があって、淡い茶色の髪の毛も綺麗に溶け込んでいる。ひと言でいえば“モテそう”な男子だ。
そして川西さんは、あっくんに似て自然な笑顔の持ち主だった。
「おふたりさんは絵が好きで?」
「私が好きなんです。彼は付き添い」
「ああそう。うちは結構緩くって、集合もこんな感じだし、そんなに気張らなくて大丈夫だよ」
「そうなんですね! そっちのほうが助かります!」
「作業もね、各々作品に取りかかる感じかな。作品展に向けて頑張ったり文化祭に向けて頑張ったり……」
ちょっぴり彼女の顔を窺ってみると、艶のある瞳で川西さんのことを見つめていた。視線の定まらないぼくと違って、彼女は正面の彼しか見ていない。
そっと帰ろうか。いや、トイレに行くふりをして帰ろうか。
そうやって考えている間も彼女たちの会話は弾んでいく。
帰るタイミングを探っていると次第に教室へ入ってくる部員の数も徐々に増えていった。最終的に教室へ集った部員はぼくたちを含めて10人ほどとなった。
川西さんの言った通りで、彼らは本当に自由気ままだ。軽く雑談をしてからのんびり準備を始める人もいれば、誰とも挨拶すら交わさずに作業に取り掛かる人もいる。彼らは普段どういう学校生活を送っているんだろう。
油断していると喰われるぞ――ぼくは何様なのかそんなことをひとり胸の中で呟いていた。
何かちょっと不思議な雰囲気の流れている空間だった。
ここはぼくの想像する“部活”ではなく、またぼくの想像する学校でもない。まるでひとつ自由な空間がそこにあって、人々がただ好きなことをやるために来ているだけ。ただそこに『美術』という制約を設けているだけのように思えた。
ぼくもここだったら――そんな淡い期待が見え隠れするぐらいには魅力的な空間に見えなくはなかった。
陽が傾いてきた頃、ようやく部活は終わった。
長くて、腰も痛くなってきていて、正直うんざりしていた頃だった。
川西さんとは昇降口が違うため、1階で別れ、ぼくとあっくんはふたり帰路に就く。
外に出ると風が舞っていた。強すぎず、かといって弱すぎない、程々に体温を奪い取る風。5月も下旬だというのに陽が落ちると肌寒かった。
「どうだった?」
あっくんがぼくを見上げた。
「別に」
「ごめんね、ひとりにしちゃって」
「……いいよ別に」
彼女から謝られたのが意外だった。
確かに、部活中ぼくはひとりだった。部員たちはぼくという存在に目もくれない。そして川西さんは熱心にあっくんのことを勧誘していたし彼女もまた熱心に彼の話を聞いていた。状況的に仕方がない話だ。
結果的にぼくは、まるでずっとそこにある置物のように、教室に存在し続けていた。
「私、入ろうかな」
胸の奥がざわついた。
「別に、入ればいい」
「え、なんか怒ってる?」
「え?」
「ごめんね、今日、退屈だったよね」
「いやいや……」
ぼくは全力で首を振る。
怒るなんてそんなみっともないこと、誰がするっていうんだ。
「入ったらいいと思う」思いつきで続けた。「ぼくも趣味ができたから放課後はそれに時間使いたい。お互いに夢中になれるものが見つかって良かったな」
「えっ、たいちゃん何にハマったの?」
「それは今度話すよ」
もちろん、ハマってるものなんて何ひとつない。嘘だ。
左わきに小道が現れたところでぼくは足を止めた。向こうの交差点で、複数の影が肩を弾ませながら横断歩道を渡っていた。
「今日はここで解散しよう」と言ってぼくは向こうの交差点に向かう。
「え? あ、うん」と彼女は驚いたように返していた。
美術部は考えてみればいいキッカケだったかもしれない。
分不相応な関係性にはどこかで天誅が下ったに違いない。それがこんなにソフトな形で終えられるんだ。彼女は好きなものが見つかって、ぼくはヘンに傷つくことなく彼女から離れられる。大万歳じゃないか。こんな機会をぼくは待っていたんじゃないか。
自問自答していると交差点がくっきりと見えるようになった。
横断歩道を渡る誰かが僕に向かって手を振った。その誰かは自然な笑顔を浮かべていた。ぼくも会釈をしようかと思った瞬間、彼が誰だったかに気付いて咄嗟にうしろを振り返ってみる。
数センチほどに小さくなったあっくんがこちらに手を振っていた。
ぼくは前を向きなおして、それから地面と見つめ合い、なるべくゆっくり時間をかけて歩いた。車が通り過ぎて、自転車が追い越していって、カラスが頭上を飛んでいった。交差点に差しかかり顔を上げてみると、もうそこには誰も居なくなっていた。
ため息をついて、空を見上げる。もう雲は青黒く染まっている。これから先どれほど生きていくのか分からないけれど、ひとりの夜が延々と続いていくと考えると末恐ろしくなった。
ふと、うしろを振り返ってみる。
当然さっきまで手を振っていたあっくんは居なくなっていた。
「……はは」
これで良かった。
いや。これが良かったんだ。
ぼくにはひとりがちょうどいい。
ぼくにとっても周りにとっても、そうに違いない。実にいいキッカケだったんだ。
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