第10話 無かったことになったはずの出来事
「いや……」
言い訳は浮かばなかった。
坂を上り切った頂上は住宅で行き止まりの、住んでいる人でなければ来るはずのない場所だから。つまり僕の目的が彼女であることは明白だった。
「正直に言いなさいよ」
「いや、えっと」
「思い出を追いかけに来たんでしょ? ここはあっくんの家だからね」
僕は何も言い返せなかった。
しばらくの間、沈黙が時を支配した。
いつの間にか僕は俯いていた。黒いジャージを履いた彼女の両足も、景色と同化しそうなほど動かなかった。
遠くで車がクラクションを鳴らしていて、呼応するかのように大型犬がどこかで細長い遠吠えをしている。それらの音が止むと、一気にあたりは静寂に埋め尽くされて、枝葉の群れのざわめきしか聞こえなくなった。
「あのさ」
先に口を開いたのは彼女だ。
「あんたは何がしたいの?」
「え?」
「思い出を追いかけて……その先に何があるの?」
湿っぽい瞳がまっすぐこちらを見た。街灯か家々の光なのか、その瞳には光が浮かんでいた。
「僕は……真実が知りたかっただけだ」
「真実?」
「くろさきりょうたが黒崎良太なのか、それが知りたいだけだ」
彼女は一瞬きょとんとした表情を浮かべ、それから少しして吹き出すように笑った。
「分かりにくい言い方だね」
「何が面白い」
「くろさきりょうたは黒崎良太だよ」
「っ……」
「たぶんだけどね」
その言い方は妙に引っ掛かった。
「たぶんって?」
「私だって記憶にないんだもん分からないよ」
「記憶にないって、どういうこと?」
彼女は小さなため息を吐きだして、ひとつ間を作ってから言い放った。
「私だって君と同じ、メモリーズで私たちの過去を知ったんだもん」
「は?」
「同じ中学校だったのに君の記憶がないってことは、やっぱり私は思い出を売っちゃったんだろうね」
「……」
「他に同級生でくろさきりょうたなんて居ないわけだし、やっぱり思い出の中の私たちは、この私たちなんだと思うよ」
だめだ、全然言っていることが理解できない。
「ちょ、待ってくれ、本当に、訳が分からない」
「だよね。私も最初はびっくりした。でも、それしか考えられないから」
嘘だ。だってあり得ないだろ。
そんな嘘みたいな偶然を信じろと?
いやいやいやいや……。
「信じられない?」
「うん」
「そうだよね」
彼女はふうっと声の混じったため息を吐いた。
頭のなかは騒がしく、あれやこれやと思考を巡らせた。どうすれば彼女の言っている事を信じなくて済むのか、その理由を必死に探した。まるで勝負に負けたのに認めようとしない子どものように。
だが証人が目の前にいる以上、もはやそれはただの悪足掻きだった。
「……いつからなんだ?」
「何が?」首を傾げる彼女。
「いつから、僕だって気付いてた?」
「ああ、学校で君と喋ったときかな?」
すこしばかり記憶を辿るとすぐに分かった。
「階段で会った時か」
僕が口を滑らせて『あっくん』と言ってしまった時だ。
「それまではまさか、君がたいちゃんだなんて思いもしなかった」
「僕だって君があっくんだなんて思ってなかった」
「……はは」
彼女は口元を隠して笑った。
不覚にも、それが可愛らしく思えた。
「何が可笑しいんだ」
「君のいう『あっくん』がね、独特なイントネーションなんだよ。だから私すぐにたいちゃんだって分かった。あの時あっくんって呼ばれてなかったら未だに分からなかったと思う」彼女は人差し指で横一線を描く。「あっくんってね」僕の言い方を真似していた。
果たして、そんな変なイントネーションで呼んでいただろうか。
思考がうまく回らない僕は、また沈黙を作ってしまう。
何気なく彼女の顔を窺ってみる。たまたまタイミングが重なって目が合ってしまったから、慌てて視線を逸らした。慣れない相手との音のない時間は相応に気まずいのだけれど、それでも僕はその場から離れる度胸は起きなかった。
そういえばあの頃のふたりに沈黙なんてあっただろうか。たぶん、すこしぐらいはあっただろう。でも沈黙だと認識するような気まずい間はきっと無かったと思う。同じ人間同士だという感覚は、やはりまったく覚えない。
もしかしたら僕たちは、思い出だけじゃなく他にもふたりに関する大きなものを失っていたりするんじゃないだろうか。
「なんで、売ったんだろうね」
その呟きに顔を上げるが、彼女は僕のうしろ――丘の下をぼんやり見つめていた。
「さあ」
「ふたりして思い出売っちゃってるって、なんか変だよね」
「ああ」
「……私、ロボットと話してるのかな?」
「いや、違う、それは悪かった」
彼女はははは、と声に出して笑った。一緒に笑うのがベストなんだろうが、感情表現のエンジンはすっかり停止してしまっていた。
「でも、僕も……うん」
「なんだって?」
「いや、なんでもない」
僕もそう思うって、なんで思い出を売ったりしたんだろうって、そう言おうとした。でも飲み込んで良かった。
あの思い出がこんなにも輝かしくて、喉から手が出るほどに欲しているのは、きっと僕だけだから。自分と同じような感情を彼女が抱いているなんて、いくらなんでも自惚れが過ぎるだろう。
僕は中毒者なんだ。メモリーズ中毒。略して……メモ中、でいいのかな?
とにかく、あれはいくら真実とはいえ過去の思い出だ。しかも、1度捨てたはずの無かったことになった出来事だ。
僕の人生には、もう関係がない。
「ねえ、教えて?」
「えっ」
スマホの画面が僕に向けられていた。暗がりでブルーライトが攻撃的に光っていた。
「ライン! ほらコード出してよ」
「あ、あ、うん……」
「私が読み取るから」
僕は慣れない操作でなんとか自分のQRコードを表示して、彼女はそれを読み取った。
彼女はスマホを自分の手前へと戻して「スタンプ送っとくね」と言った。僕が唖然としている間にスマホが振動し、その画面を見てみると『ayumi』からスタンプが届いていた。
クマのイラストが勢いよく手を振っている。会った時に使うのか別れる時に使うのか、いまいちハッキリしないスタンプ。
「クマ……好きなんだ」
「ふふ……ぎこちないよ、君」
「ぎこちないかな」
「じゃ、今日は帰るね」
返事をする間もなく、彼女は手を振りながら背中を向けた。僕は無言のまま彼女が見切れていくのを見届け、それから踵を返す。頂上から下界にかけて、闇のなかに光が統一性もなく浮かんでいた。見覚えのある、それはそれはノスタルジックな光景だった。
でも……僕はその美しさには酔わない。これは夢でも思い出でもなく、僕自身が最も心を許しがたい“現実”だから。
「ねえっ」
「え?」
振り返ると、去ったはずの彼女がそこにいた。
「メモリーズのこと……誰にも言わないでくれる?」
「ははっ」
吹き出してしまう。
すぐに取り繕って僕はいった。
「大丈夫、言う相手もいないよ」
背中を向けて足早に丘を下った。何かを彼女は言っていたけど聞こえない。多分「ありがとう」とか「よろしくね」とかそんなことだと思う。丘を下りきってもなお、僕は早歩きを止めずに急いだ。ふと、急ぐ必要なんてどこにもないと気付いたけれど、それでも止められなかった。
まさか“あの”メモリーズが僕自身の物語だっただなんて、嬉しいことかもしれないのに、喜ぶべきことかもしれないのに、それでも僕はやっぱり偶然が信じられなくて、この夢のような現実から逃れたくて仕方なかった。
お読みいただき、ありがとうございます。
評価や感想を頂けると励みになります!
よろしくお願いします。