◆35 もう引き返せない
ルアニスト侯爵邸に訴えに行った日の夜。
「はぁぁぁ……」
湯浴み後、無造作にガウンの腰紐を結い、ソファーに深く座り背もたれに背中を埋めた。肩にかけたタオルで雑に髪を拭いたから、まだ前髪からぽたぽたと水滴が落ちる。
帰ってきた後に使用人達が恐縮していたのを、先ほどカーチェスから聞いた。それだけ、顔に出ていたという事だ。明日は気を付けないといけないな。
だが、もう少しの辛抱だ。殿下の成人の儀が数日後に控えている。
上手くいくといいんだが、と思っていたその時。背後から手が伸びていた。それは、俺の肩を抱きしめる。この匂いは、よく知っている。
「ダンテ」
「……何故殿下がここにいらっしゃるのですか」
「お前の執事が人払いをして通してくれた」
「……そうですか」
髪が濡れているじゃないかと腕を緩めたシリル殿下は、ソファーを回り俺の隣に座った。そして、俺の肩にかかるタオルを取り丁寧に髪を拭き始めた。
殿下にこのような事をやらせてもいいのだろうかと一瞬思いはしたが、断る気力すらなくそのまま大人しくしていた。殿下の長い指が、タオルごしに頭皮に伝わってくる。
俺は、ダンテ同様人に触れられるのは苦手だ。湯浴みの場などでメイド達に触れられてしまうが、慣れれば問題ない。
殿下と会うのは、数えるくらいのはずなのに、心地よく感じてしまう。気を抜けば、寝てしまいそうになる。こんな、気の抜けた俺を見た殿下は、何を思うだろうか。
それを隠すかのように、殿下の頬に手を添えた。すべすべした頬を親指で撫でると、殿下は微笑み手の方に頬を寄せてくる。
だが、殿下は微笑みに憂いを混ぜた。
「ダンテ、お前は……」
静かな寝室で、静寂を破った殿下の声に、何となく寂しさを感じる。だが、その憂いは消えていた。
「……いや、何でもない」
「……シリル?」
「早く拭かねば風邪を引くだろう。数日後に俺の成人の儀を控えているんだ。風邪などひいて欠席など、笑えんぞ」
「……」
殿下の言う通り、さすがにそれはマズいな。
だが……あんなに苛立たしさを感じていたはずが、今は安心感を得ている。外は暗闇、そしてこの場所はいつもの別邸ではなく、使用人達が大勢いる本邸の、俺の寝室。新鮮さを感じるな。
それに……俺の為にわざわざここまでいらしてくれて、髪まで乾かしてくれて、優越感にも浸ってしまう。
俺は、おもむろに殿下をソファーに押し倒した。殿下の顔の両横に、手を付く。
「俺を襲う気か?」
「……」
「……ダンテ?」
なんとも言えないもどかしさを抱えつつ、殿下に口づけた。それに応える殿下に、徐々に、徐々に、深く、のめり込んでいく。
俺の下にいた殿下は、俺を抱え起き上がる。俺を抱え、この寝室にあるベッドに移動した。そして、ゆっくりと、割れ物を扱うかのように優しく降ろす。ギシ……と音を立てて殿下が俺を組み敷いた。
計画は順調に進んでいる。もう少しで、クライマックスだ。
だが、こんなはずではなかった事が一点ある。
……――他でもない、シリル殿下だ。
「ダンテ……」
「んっ……シリ、ル……」
今……ためらいを感じている。その理由も、よく分かっている。
「……殿下、このあと、渡したいものがあります」
「……分かった」
このタイミングでそれを伝える。殿下は、渡したいものがどういうものなのか、悟っただろうか。
カーチェスに渡して皇城に持っていかせるはずだった、だがまだためらって手元にある、あの封筒を。
その封筒の中身で、俺の描いたエンディングが訪れる。
そして……――この関係も終わることとなるだろう。
「……シリル、もっと……」
「珍しいな、ダンテ」
だが、今はそんな事は頭から離そう。シリルから感じる優しい温もりを、もっと感じたい。




