シチューエーション
ゼロからイチを生み出せる天才は一握りで、凡人の創作には資料が不可欠だ。だから裸にしたマッチョの背中にあつあつのシチューをぶっかけるシチュエーションの小説を引きこもりの妹に要望されたからには、俺は、俺は……。
「無理無理無理」
俺は拒否した。頭に毛布を被ってベッドの上で割座をしていた妹の菜萌花は天井に向かって激しく咆哮した。
「ぎゃおおおおおおおおおおん」
「汚い鳴き声を上げてもムダ!」
投げつけられた枕を避けると、妹が倒れこんできた。なんとか妹を抱えて床にぺったんと尻もちをつく。やつはいい匂いのする頭のてっぺんを俺の胸板に何度も擦りつけたり頭突きをしたりして、やがて手足を放り投げた。妹の体温と冬用寝巻きのもこもこを感じる。
「いいのかな、お兄ちゃん。わたしが引きこもりを続けたら困るのはお兄ちゃんなんだよ?」
「いちばん困るのはおまえだっつうの。マッチョと引きこもりに何の関係があるんだか」
けほけほと妹は咳をした。病弱キャラではない。
「あのね、お兄ちゃん。フィクションはね、希望なんだよ。願いであり、祈りなんだよ。インターネットでよく祈りって言われているから、祈りなんだよ。雨乞いって知ってる? あれも祈りなんだよ」
「中身のねえ話だなあ」
「中身なんてなくていいの。メッセージやテーマはいらない。キョーミない。ただ、キュンとしたいの。自分の好きなシチュエーションのフィクションがあれば、人はそれを原動力に生きていけるの」
妹は目をうるうるとさせ、かよわい指の力で俺の寝巻きのもこもこをひねり潰した。
「自分好みのフィクションが供給されなかったら、悪いことしちゃうかも。だって希望がないから、絶望するから、倫理や道徳なんて知らんぷりしちゃっても仕方ないもんねえ」
「あのなあ、癇癪や脅迫で人を動かせると思うなよ。現実に向き合え。外に出て挫折し、社会に適合する努力をしろ」
「ひぐっ、ひう、ひほすぎる、ひごふひるよおひいひゃあん」
幼子のように泣きだした中学三年生の妹を膝に、俺は咆哮のあとを追って天井を見ていた。この前は夏だった。真夏に窓を閉め切って冷房もつけずに女の子を何重にも厚着させるシチュエーションの小説を書くために、俺は軽度の障害がある女の子を家に招き入れた。障害が重くなった。彼女は両親と話せなくなったから、真相はだれにも露見していない。しかし、このような幸運が何度もあるとは思えない。マッチョにシチューをぶっかけても口を塞げるほどの障害を負わせることはできないだろう。
「だれかに依頼したらいい。この世には稼げるなら何でも書くプライドもへったくれもない売文の徒がいる。あいつらの作品には確かに魂がない。薄っぺらい。せっかくの膨大なインプットを衒学趣味や底が浅いパロディとして出力する。それでも俺よりはましだ」
顔を上げた妹は「そんなことないもん」と頬を膨らませた。もう泣いていない。
「お兄ちゃんの小説にはリアリティがあるよ」
「実体験や取材した内容、専門家が書いた小説だったら表現や構成が大したことなくても評価しちゃうタイプか」
「あのねえ、魔法少女がいるとするでしょ。本当はいないんだけど、もしかしたらわたしの住む町が平和すぎるだけで違う町にはいるかもしれない。それがリアリティなんだよ。そしてリアリティのない物語は希望や勇気を与えないの。だって完全な作り話だってわかるから。他人の頭のなかの妄想を押しつけられて嬉しい人はいないんだよ。根も葉もないありえない話をぶつぶつと呟いている人は避けるし、親族が正気を失ったら病院送りにするでしょ。だけど、その妄想に少しでもリアリティが帯びてくると、妄想を共有しても許されるようになるの」
「どの町にも魔法少女はいねえよ」
妹は夢見るようなまなざしで俺の喉仏をつまんだ。あいにく俺の喉仏にもいない。
「あつあつのシチューをぶっかけられるマッチョはいるよ、お兄ちゃんが書けばね。わたしやほかの人が書いてもそうはならないかも。理想を現実に実現する力がないからね。それをみんなは才能と呼ぶけど、わたしは魔法だと思う。だからお兄ちゃんは魔法少年。そして魔法少年がいるなら魔法少女だっている。証明おわり」
我が妹ながら同情してしまう。この阿呆は何を与えられても満たされることはないし、虚構でしかないフィクションに耽溺し続け、このままずっと成長しないだろう。
成長できない読者のために物語を供給する意味はあるのか?
「絶対に書いて、お兄ちゃん。書いたらそれは現実になるから」
だが、俺は凡人で、現実を参照しなければ書けない。
翌日の昼休みになっても俺はうんうん唸っていた。この教室に裸の背中にあつあつのシチューをぶっかけられているマッチョはいない。ぶっかけられてもいいマッチョもたぶんいない。第一、あつあつのシチューをぶっかけるなんて犯罪だし、相手が抵抗してくるだろうし、半殺しにされるだろうし、ありえないことだ。フィクションじゃあるまいし。
弁当箱を目の前に長考していると、前方から箸が伸びてきて卵焼きを奪われた。その行方を追うと、対面に座っていた幼馴染のミナコの大きく開いた口に運ばれたのを最後に消息不明になってしまった。さらに箸が左右からも伸びてきて、にんじんのバター和えとほうれん草のおひたしを奪われた。にんじんのバター和えは俺から向かって左に座っていた後輩のアリスの小さな口のなかに、ほうれん草のおひたしは向かって右に座っていたヤオ先輩の中くらいの口のなかに消えた。連続失踪事件だ。ヤオ先輩も難事件に顔をしかめている。
「まずいですわ~」
「だったら食べないでくださいよ」
「ほうれん草のまずさもさることながら、間森くんがむすっとしているのもメシがまずくなりますわ」
顎を突きだして俺を挑発するヤオ先輩に対し、アリスは同調するように小さくうなずき、ミナコは幸せそうな表情で俺のミニハンバーグを咀嚼していた。
「はあ、現実って現実に起きることしか起きないから大変だと思ったんですよ」
アリスは小さな声で「頓珍漢」と抑揚なく発話した。ヤオ先輩はまだ顎を突きだしており、ミナコは俺の水筒を持ってごくごくと喉を鳴らしていた。
放課後になっても俺は教室で自分の机にしがみつきながら唸っていた。裸の背中にあつあつのシチューをぶっかけられても文句を言わないマッチョなんて現実にいない。だから書けと言われるが、現実にないものは書けない。
めがねと髪ゴムを外すとたちまち美少女になるお下げで学級委員の青井さんは「戸じまりと返却よろしくね」と俺の丸まった背中におずおずと鍵を乗せた。鍵は曲線を静かにすべって背中と椅子のあいだに挟まった。その様子を見届けてから教室を去った青井さんがぴしゃりと閉めた戸を見て、俺は深い嘆息をもらした。現実なんてこんなもんさ。身じろぎで鍵が椅子に、そして床に落下して打ちつけられる。
ないものはつくるしかないと言うが、ならば裸の背中にシチューを掛けても許してくれるマッチョをつくるしかないのだろうか。いったいどうやって。表通りを歩きながら携帯端末を操作して近隣の特別支援学校を調べはじめた、ら、だれかにぶつかって、あやうく車道に突き飛ばされそうになった。
存在するだけで治安の悪化に寄与する風貌の男子高校生が三人もいた。ぶつかったらしい一人が俺の両肩をつかんで揺さぶってくる。
「なあ、きみ! 画面を見ながら歩いていたら危ないよ! オレが赤ちゃんだったらどうすんの」
「俺が赤ちゃんだったら脳が損傷しますよ」
三人は俺を衆目から隠すように取り囲み、えっさえっさと狭くて暗くてひんやりしている路地裏まで誘導した。俺を行き止まりに配置した三人は陣形を変えて逃げ道を塞ぐように並んだ。隙間なく……はない。
「観念しなさい、囲碁だったらもう終わりだよ」
ところが、現実は囲碁ではなかった。三人のうち真ん中にいた一人が膝をついて前方に倒れた。残りの二人も背後を確認する隙さえ与えられなかった。俺は彼らを踏みつけないように進み出た。
「どうやって倒したんだ」
親友の水和は俺の肩を抱いて「手刀さ」と答えた。路地裏からそそくさと逃げ出してお天道様と再会した俺たちだったが、すぐに近くのファストフード店に入ったのでしばしの別れとなった。
テーブルに頬杖をついた水和は目をらんらんと輝かせて俺の顔をのぞきこんだ。
「なんだ、兄弟。苦悩に満たされているな」
「妹に小説を書けとせがまれたんだが、取材が必要で」
あいまいな説明に水和は「わかるよ」と遠い目をした。彼はチームで作品をつくってコンペに応募しているらしいが、どんなチームで何をつくっているのかは未だにはっきりしない。それでも詳細は聞かない。お互いさまが友情の秘訣だ。
「マッチョでおとなしそうな……従順……素直そうな男を探しているんだけど」
「鍛えているヤツは自我があるからな」
「まあまあ」
「低身長のマッチョなら劣等感が強いから利用しやすいさ」
「高身長がいい。低身長がどんなに必死に鍛えてもマッチョとは言えないから」
番号札と引きかえに俺たちのハンバーガーがやってくる。水和は包みを開いたことで着想を得たかのように話しはじめた。
「背の高いヤツなら見つけやすいかもなァ。肩幅のある男を見つけ次第、すれ違いざまに勢いよくぶつかるだろ。相手を突き飛ばしたら逃げるだろ。相手が突き飛ばされずに怒ってきたら謝罪するだろ。相手が突き飛ばされずに謝ってきたら取材する」
「天才の発想だな」
ダチから借りて読んだ青春小説があまりにも非現実的な設定で萎えたとか曲がり角でぶつかってきた女がじつは転校生でとなりの席になったとか、いつでもできる話を今しかできないように長々と交わしてから別れ、俺は明日以降の予定を考えた。
うーん。謝って許してくれるかな。
偏差値の低い学校では粗野な不良がはびこっているように思われて、夢や目標もなく無気力でぼんやりしている頭の回転が遅いだけの愚図も多い……親友の助言を思い出しつつ、放課後の駅前広場にて、俺は他校の制服を着たドデカい男子生徒らにぶつかりまくっていた。駅前では大勢の人が行き交うからぶつかりやすいし、人混みにまぎれて逃げやすいし、いざとなったら近くの交番で助けを呼べる。俺がお巡りさんに捕まるおそれもある。
ぼふん、ばふん、どふん。ぶつかり高校生と化した俺は無心でぶつかりと謝罪と突き飛ばしと逃走を繰りかえした。どいつもこいつも謝ってこない。二人組のうちの一人にぶつかったらもう一人が俺の胸ぐらをつかんだ事例もあった。ぶつかられた方が制止してくれたが、ぶつかられてもないのに急に怒りだすなんて。さすがは偏差値の低いやつら――。
ぼゆん。初めて後方に押しかえされそうになった。すんでのところで均衡を保ち、目の前の相手を見る。背は高い。立派な胸筋、しっかりした肩幅、よく噛んでいそうな顎、ちょっとうるんだ瞳、頼りない眉毛。
「ご、ごめんなさい、大丈夫ですか」
そこには気の弱そうなマッチョが立っていた。試しに「許さねえ」とドスのきいた声で脅すと、彼は身をすくませた。
裸にあつあつのシチューをぶっかけても許してくれそうだ。
一段でも上ったら次の段も上りたくなる。小さな要求を受け入れさせたら裸にシチューを掛けても許してもらえる……未来の裸シチューのために謝罪ドーナツを要求した俺は、ドーナツ屋の前に駐輪された自転車と自転車のあいだに弱気マッチョを押しこみ、お持ち帰りしたばかりのドーナツの穴から彼をのぞきこんだ。
「なぜ穴があると思う」
「製造工程で……」
「現実がフルには満たされないことのメタファーだ」
「は、はい……」
「いつも満たされないと思ったことはない?」
「い、いいえ……」
埒が明かない。俺はドーナツにかじりつき、指についた砂糖をベロンベロンと舐めた。
「シチューって好き?」
「まあ、はい」
「ぶっかけは好き?」
「ぼ、僕はけっこう好きです」
「裸体は?」
「大好きです」
合意を形成したところで、俺はシチューをつくってやると約束した。唇をむぎゅっと噛んだだけで彼のむなしき抵抗は終わった。
凡人の創作に資料や人生経験が欠かせない理由、それは非現実を自由に描けるほどの想像力がないからだ。
男「おまえの背中にシチューを掛けてやる!」
にんじん大きめの白いシチューを上から落とす。ぽたぽた。どばーっ。
裸でマッチョの男「うわあああああああああ」
こんなものを読ませてごらん。妹様の発作が目に浮かぶ。『魔法少女が死んだ!』死ね! そう返せたらどんなに楽なことか。
小説のなんと難しいことか。ありもしない情景をありありと思い浮かべられるように書くべし。
明くる日の休日、俺は大きな鞄を背負ってマッチョの住む集合住宅を訪ねた。錆びついた手すりを横目におんぼろな階段を上ってすぐの部屋に入る。外観にふさわしい内観で、ヤニ汚れからか壁が全体的に黄ばんでいた。暖房の気配はないが、よどんだ空気がこもっているおかげで外より暖かい気がする。灰色の地味なスウェット上下に裸足で震えている気弱マッチョに案内される形で、玄関に放り出されている数多の靴を避けながら、毛羽だった上履きに足を差しこんでリビングまで進む。彼の母親は昨晩から友人の家に泊まっているらしい。友人は友人でも男の友人だろう。壁際にある薄ピンク色のカラーボックスの天板に置かれたプラスチック製の写真立てに斜めに差しこまれた写真中央のケバケバしい髪の色がすべてを教えてくれる。
それはともかくシチューだ。シチュー。死への接吻。カレー専門店やカレーショップやカレー屋さんやカレーチェーン店は山ほどあるのにシチュー専門店やシチューショップやシチュー屋さんやシチューチェーン店の名をよく聞かないのはなぜだろう? シチューフランチャイズ……俺は近くのスーパーで買ってきた食材を一口コンロの脇に並べた。ごろっとしたじゃがいもがごろっと転がって流し台に落ちる。こんなに狭い台所ではまな板を安定して置ける場所がなさそうだ、が、そもそも台所に置くまな板が存在しないらしい。深刻そうな顔をした弱マッチョから牛乳パックを切り開いたごみを渡される。
幸いにも両手鍋と包丁はあった。気の弱そうな大男はそわそわとしつつもシチューを準備する俺の背後に立ったり真横からのぞきこんだりした。にんじんを切ったり鍋にルーを投入したりするだけで「ほお」や「はあ」の感嘆詞が聞こえてくる。このシチューが自分の背中に掛けられるとも知らずに……。
シチューに牛乳を投入。この時点でマッチョが裸になっていない現状に気づいて俺は焦りはじめた。宿題を先送りにして夏休みの最終日が近づくたびにそわそわする妹のようだ。
人々はどうやってあつあつのシチューを裸になったマッチョの背中に掛けているのだろう。それがわからないから実際にやってみないとわからない。だから実際にやろうとすると初めての試みなのでわからない。
最初にこんにゃくをつくった人間がいるからこんにゃくのゼリーが生まれた。完全なオリジナルは存在しない、ことはない。どこかに原点があるはずで、天才だけがそれを生み出せるのだ。
凡人にできることはわずか、パロディやオマージュという名のパクリ、資料集め、取材、実際に体験、略して実験。
ぎらりと俺の脳細胞が虹色に光った。そうだ、失敗しても新しいマッチョを捕まえればいいんだ! 一回目で完璧にこなさなくたっていい。創作と同じだ。初稿がぞんざいで下手くそでも推敲を重ねて形を整えればよい。俺には何の才能もないが、何度もやればコツをつかんで巧くなる程度の知能はある。大量に作品を完成させているのに一向に上達しないような不気味な存在とは生物としての格が違うのだ。俺は失敗を成功の母にする男、要するに失敗の夫だ。
失敗と性交して成功を生み出すぞ!
シチューをぐつぐつさせながら床に放置していた鞄から手錠を取り出した。拘束具について水和に相談したときに、ちょうど彼の鞄に入っていたので運良く借りることができたブツだ。
「どうして手錠が鞄に」
外なる声に振り向くと、そばにいた気弱のマッチョが目を見開いて手錠と俺を交互に見ていた。黙っていると「もしかして隠し味……?」とマッチョの推理は迷走しはじめた。ええいままよ! 俺は目にも留まらぬわけでもない速さでマッチョに手錠を掛けた。
マッチョは手錠をじっと眺めたあとで、ゆっくりと顔を上げた。
「あの……」
「あ?」
「え、いや、すみません」
善は急げ。状況を理解していないマッチョをひっくりかえし、肩と背中をパンチしながら浴室へと連行する。だが、脱衣所に来たところで気づいた。マッチョがまだ服を着ている。もう失敗した。
妹がおねしょをした寝具を押し入れに隠すように、俺は失敗作を浴室に押しこんで粛々と外から鍵を掛けた。どうして浴室の扉の外側に鍵があるのか? 一人で部屋を探索しながら考えるが答えは出ない。幾度も壁にぶつかっては跳ねかえされを繰りかえし、マッチョの部屋と思われる場所からハサミを入手した。浴室に直行、勝手に浴槽のふちに腰を掛けて休んでいたマッチョを立たせ、背中から服にハサミを入れる。
刃先が触れたか、彼は「ひい」と発する。
悲鳴すら大きな声で叫べない生き物は淘汰されるだろう。仲間に危険を知らせることも助けを求めることもできず、糧になって終わるだろう。
あっ、シチュー! 急いで剥ぎ取った服とハサミをそのまま持って鍋まで走る。万事順調、間に合ったようだ。焦げもせず吹きこぼれもせず、ただただ、シチューである。これを掛ける。これに賭ける。これで書ける。
鍋のふたはマッチョの母親の彼氏がマッチョに向かって投げつけたときに壁にぶつかって割れたと聞いた。このまま運んで思わぬ事故が起こると危険だ。鍋つかみはどこだ。いや、この家に鍋つかみがあるとは思えない。火を止め、先ほどまでマッチョが着ていた服越しに鍋の取っ手をつかむ。
なかなかの重労働。まず鍋が台所から浴室まで運ばれることを想定されたつくりとは思えない。鍋のなかでおたまもうずうずとしている。しかし書かないと小説も完結しないように足を動かさなければシチューを浴室まで運べない。着実に、少しずつ、耐え忍びながら、先に進んでゆく。
あっ、鍵! 一旦、脱衣所に鍋を置いて浴室をのぞく。浴室の鍵どころか扉すら閉めずに慌てて出て行ったにもかかわらず……太ってから引き締めたような体つきだ……なぜか浴槽のふちに腰を下ろして逃げもせずにうつむいたまま俺を待っているマッチョに声を掛ける。
「なあ、四つん這いになってくれないか」
弱ッチョは「その」とためらい「差別ではないんですけど」と続け「僕は」と語りはじめようとしたので手で制止した。
「危害は加えないから」
「でも……」
「棒も玉も出さないから」
ようやく納得したらしく、マッチョは首をかしげながらお風呂の床にゆっくりと膝をついた。ああ、シチューがさめつつある! 緩慢な動作を終えて首だけ動かして俺を見上げるマッチョを無視し、脱衣所に放置していた鍋をお風呂の床までちょいと引きずって移動させた。彼は四つん這いのまま、シチューを見つめている。
「あの、あのう」
ほんのりやさしく「大丈夫かい」とおとなしい子どもに尋ねるように聞いてみると、マッチョは「だ、大丈夫です」と答えた。
大丈夫かと聞かれたら、大丈夫と答えるのが人間の流儀だ。
同意よし、安全確認よし、忘れ物あし。廊下を急いで往復して足錠をマッチョに取り付ける。マッチョが熱さで飛びのいた拍子に鍋がひっくりかえったら――ぞっとする! だが、手錠と足錠を掛けられた状態なら簡単には逃げ出せないだろう。
準備は整った。マッチョはすでにシチューから視線を外し、壁と床のあいだにある黒カビの辺りを凝視している。もう覚悟しているのかもしれない。あるいは身を清めるはずの浴室なのに不衛生だと思っているのかもしれない。黒いカビに対する白いシチュー。俺は片膝をついておたまでシチューをすくい、渾身の決め台詞を吐いた。
「おまえの背中にシチューを掛けてやる!」
にんじん大きめの白いシチューをマッチョの背中の上から落とす。ぽたぽた。とろーん。
辺りは静けさに満ちていた。天井の換気扇からここではない場所に生きる人たちをありありと感じるほどだった。じゅっと焼けるような音もなく、荒い息遣いはあったが、声はなかった。
裸にシチューを掛けられたマッチョは、身悶えして、拳を強く固め、頭を下げて、歯を食いしばるだけで、何も言わなかったのだ。
そう、これがリアルなのだ。リアリティはない。しかし、リアルはここにある。俺はシチューを背中に落とすのにほどよい高さと鍋を何度も往復し、無防備な背中にあつあつのシチューを掛けた。にんじんやじゃがいもがごろごろと回転して彼の背にシチューを広げたあげくにぼとっと落ちる。段取りが悪かったせいでもう熱くないのか、彼の筋肉が熱さを感じさせないのか、それとも耐えているのか、耐えたところで意味もないのに、叫んだところで意味もないが、理由があるのか、理由がないのか。
いや、シチューを掛けられている存在の心情などはどうでもよい。彼の家庭環境、葛藤、心理、苦しさ、悲しみ、怒り、思想、人権への配慮、テーマ、時代性、ひとつも必要ない。
妹が求めているものは、裸にしたマッチョの背中にあつあつのシチューをぶっかけるシチュエーションの小説だ。
ぶっかけたいだけで、ぶっかける人間に感情移入したいだけで、ぶっかけられる人間にとってのリアルなんて興味がないし、興味があるとしたら、それはリアリティによって臨場感と興奮を高めるため。
ずっとぶっかけているだけ。
ずっとオナニーしているだけ。
現実において対話できない人間が、本やその登場人物や作者とは対話できるなんて、ありえない。
だとしても、俺はあつあつのシチューをマッチョにぶっかけ続ける。シチューがなくなるまで。底をつくまで。俺かあいつかおまえが死ぬまで。
俺たちは生きている、理想を現実にしようと動いているときこそ、生きている。
理想が現実になった瞬間、終わる。