第百四十九話 続・またか
六月一日(木)
N大学医学部附属病院まで関西線と中央線を使って九時に行き、Y医師の診察を受ける。その結果、肺癌の摘出手術実施日は七月七日、入院は七月六日と告げられ紙を一枚渡されて、それを見ながらあちこち移動して入院に際しての注意事項や準備することなどを聞いて回る。
その中の一つに口腔検査があって、看護師が「口を開けて下さい」というので大きく開けると、「わ、きれい」と言ってくれたので嬉しくなるが、近所の歯医者で三カ月毎に大掃除してもらっているからさもありなん。(逆にキタナイ口とはどんな口をいうのだろう?)
六月五日(月)
K総合病院に行ってK医師を受診し、七月七日に手術することが決まったと報告すると、「それでは、次回は万が一感染症にかかると退院が遅くなるから、念のため七月三十一日にしましょう」と告げられた。
六月十二日(月)
午前十時頃に新居の二階の自分の部屋で迷惑メールを処理していたら、「お父さん、ちょっと来て!」と息子が大声で呼ぶので下に降りて行くと、息子の妻が意識朦朧状態で横になっていた。救急車を呼んで保険証が入ったバッグを持って私が同乗し、息子は0歳の孫娘と共に後から自分の車でK総合病院に駆けつけてきた。幸い命に及ぶことはなく、熱中症だろうということで点滴を一本打って元気になったところで午後一時半頃に帰宅した。
六月二十七日(火)
息子夫妻も御多分に洩れずコロナ禍もあって結婚式を挙げておらず、双方の親と当人達だけの記念写真撮影が予約してあったため、午前十一時頃に一人車でフォトスタジオがある名古屋市中区錦2丁目まで出かけた。
六月二十八日(水)
午前十時、十四年間乗っている愛車をディーラーまで運んで半年点検に出す。三千九百九十三円で済んだが、オイル漏れが少しあるというので見積もりを出してもらったら、四万七千八百十七円かかるようだから、家を売り払ったら金が入るから買い換えることにして、それまでは壊れずにいて欲しいと願う。
七月六日(木)
入院の日。仕事が休みの息子が病院の玄関近くの路上まで車で送ってくれたが、名古屋高速を使ったので九時前に到着した。受付で指示された病棟十一階のナースステーションまで行くと病室に案内されたので荷物を置き、頼んであった一日五百円のCSセットの甚平に着替える。靴も蟹江町の靴流通センターの入り口に山積みしてあった九百八十円の上履き用シューズに履き替える。
看護師に案内されて行った小部屋で明日の手術の説明を医師からうけ、数枚の承諾書にサインを求められる。そして午後からは、リハビリを担当する青年と一緒に廊下を早足で歩いて体力測定だ。手術後はなるべく横にならずに座り、動いて、息を大きく吸って肺を膨らませることを心掛けるようにと教えられた。
またVATSマーカー留置とやらを担当する青年医師が病室に来て局所麻酔でやることを説明し「息を吸って、吐いて、楽にして、と何回も繰り返していただきますが、一生懸命やり過ぎると疲れてしまいますから、気楽な状態でやって下さい」と助言してくれた。
七月七日(金)
手術当日。午前八時四十五分からVATSマーカー留置を受ける。これをネットで調べると【腫瘤が小さく手術時に同定できないことを避けるため、マーキングのためVATSマーカーというものを術前に留置すること】とある。
つまり、管の先端につけた注射針のようなものを胸の中に刺していき、何回もCTを動かし、画像を見ながら肺癌の位置を特定して染色する施術らしい。
実際に針を刺していったのは前日に説明してくれた青年医師のようだが、その隣に先輩らしき青年医師が付き添っていて、二人でなんやかんや会話しながらやっていくので、ああそうだった、ここは大学医学部附属病院だった、と苦笑しながら、最小限の失敗で済むことを祈る。
肺のメイン手術は家族が立ち合わねばならないから、連絡してあった息子と午後一時半頃に十一階のロビーで合流し、歩いて手術室に向かう。
エレベーターの何階で下りたか記憶にないが、「一番奥の手術室です」と案内されて行く途中に『手術中』の赤いランプが灯った部屋が十部屋ばかりも並んでいて壮観だった。
息子とは手術室の前で分かれたが、全身麻酔ということを知っていたので彼は言った。
「それじゃあ、おやすみ」