③
敵が、セプテントリオンが接近している。いてもたってもいられなくなった藤乃は、あてがわれた自室のある居住区に向かった。部屋の中で藤乃を出迎えたのは、同室を割り当てられていたすばるであった。
「藤乃、どこ行ってたの」
「ちょっと、ね。それよりT2出すから手伝って」
「T2って……藤乃、まだ飛ぶ気なの? あんなことがあったのに」
「あんなことがあったからだよ」
藤乃が持ち出していたT2を収めた金属製ケースの上には、ご丁寧にすばるの私物がドンと載せられている。藤乃はその荷物をどかしにかかったが、すばるはその手を掴んで制止した。
「もうやめよ? 藤乃が危ないことする必要なんてないでしょ」
「でも、私は飛べるんだ。だったら何かできることがあると思う」
「なんで⁉ なんで藤乃が飛ばなきゃいけないの⁉」
突然荒げられたすばるの声に、藤乃はびくっと体を震わせた。見れば、すばるは目に涙を浮かべ、藤乃の服の袖を掴む腕は震えている。
「藤乃は……死ぬのが怖くないの……」
「怖いとか、怖くないとかじゃないんだ。できるかできないかの話。私は飛べる。今はそれが必要なんだよ、すばる」
「やだ……やだあっ!」
すばるは藤乃を無理矢理に引っ張り、床に組み伏せてしまった。
歳が一つ上なのもあるが、平均的な体型のすばるは小柄な藤乃より体が大きい。すばるに組み敷かれてしまった藤乃は動くことができなくなった。
「やだ、やだ……藤乃はここにいてよ……ずっとそばにいてよぉ…………」
すばるの目から大きな涙粒がぼろぼろと落ち、藤乃の服の胸元に吸い込まれた。
熱い。そして重い。藤乃は今の今まですばるの言葉に全く耳を傾けていなかったことを後悔した。
採用試験のあの日、帰還する藤乃を待っていたすばるの心労は、藤乃の想像以上だったはずだ。軍人として、いつかは死ぬかもしれないと覚悟をしていた川崎みつばやその同僚とは違う。藤乃と同じように、すばるもまた軍人ではない。「いざというとき」の心構えなど、出来ているはずがない。
「……ごめん、すばる。でも私は行くよ」
だからこそ、藤乃は飛ばなければならないと思った。
いつしか、藤乃は空を飛ぶ目的が変化しつつあった。人類の、地球生命の敵セプテントリオンに唯一対抗しうる、シェルヴールという存在。それを纏うことができる藤乃には、やるべきことがあるはずだ。
川崎伍長の死。空は危険なところだ。セプテントリオンの飛び交う戦場の空では、いつ命を落とすかもしれない。だがそれでも空を飛ぶものたちがいる。藤乃はその姿に憧れていた。澄み切った青い空ではなく、空を舞う鋼鉄の天使たちに。
すばるを宥めた藤乃は自分の上から彼女を除け、起き上がるとT2を取り出しにかかった。だがまたも何者かの腕がそれを制止してしまう。
毛深くて筋肉質の、ごつごつとした男の腕。見上げた藤乃の目に飛び込んできたのは、怒りに震える藤孝の顔だった。
「来い、藤乃」
無理矢理に引っ張られて、藤乃は自室を後にする。お説教してる場合じゃないでしょ、と不平を言うも、藤孝は黙ったまま廊下をずんずん進んで、藤乃を引っ張って行った。
「藤乃、T2なんかでどうする気だ」
「どうするって……飛ぶのに決まってるじゃん」
「あんなので飛んだら今度こそ死ぬぞ」
藤乃をぐいぐい引っ張り、藤孝はスパルヴィエロの艦内を真っ直ぐ進んだ。
「離してよおじさん。私も飛びたいんだ」
「ダメだ」
「危ないことはやめろっていうつもり? 父親でもないくせに」
その藤乃の言葉は確実に藤孝の血管に響いたようだった。突然立ち止まった藤孝は藤乃を乱暴に前に投げ出し、藤乃は床に転がってしまった。
「藤乃、お前はなんで空、飛ぶんだ」
租界地にいたころと同じ質問をする藤孝。だがそれに対する藤乃の答えは変わった。
「飛べる私には、できることがあるから」
「お前は何も分かっちゃいねぇ。お前が誰かの命を守るとして、誰がお前の命を守ってくれるんだ」
「それは……」
「『守ってもらわなくていい』なんて言わせねぇ。聞いたぞ、お前を逃がそうとして、教導航空隊の隊員さんが亡くなったそうだな」
「…………」
「お前が命を粗末にするってことはな、その隊員さんの死を無駄にするってことだ。それが分かってんのか! お前は生きなきゃならねぇんだよ!」
「…………」
藤乃は藤孝に何も答えることができなかった。
二人の間に沈黙が流れる。藤孝が顔に表した怒りを鎮めたところで、ゆっくりと、藤乃に語り聞かせるように口を開く。
「俺も昔は戦場を飛んでいた。仲間もいた。でもみんな死んだんだ。あの日、あの時、あの空で――――死んでいたのは俺だったかもしれねぇ。俺は運よく生き残った。生き残っちまったんだ」
藤孝の握った拳は震えていた。
「今の俺はあいつらの分まで生きなきゃならねぇんだ。国を守れるなら自分の命なんて惜しくねぇって思ってた俺も、一人になったら怖くなっちまった。俺の代わりに死んでいったあいつらに託されたこの命を、無駄にはできねぇんだ」
「……でも、私はっ」
「藤乃。これだけ言ってもまだ飛びてぇってんなら、もう俺はお前を止めねぇ。だがT2はダメだ」
「え?」
「お前みたいな聞かん坊にはもっと上等なもんを用意してやる。どうする、藤乃」
「私は……飛ぶよ」
藤乃のすぐ横で、壁が左右に開く。
そこにあったのは、広大な格納庫だ。駐機された普通の航空機の並んでいるその向こうには、シェルヴールを整備するための小さなスペースがある。藤乃と藤孝が格納庫を横切ってそこまで歩いていくと、まるで飾られるように、一着の軍服が飾られている。デザインこそペトラやイングリットのものと同じだが、サイズは少し小さめで色はホワイトグレーになっている。
「『F-4EJ』。旧式だが武装もされた、お前用に調整した正真正銘、軍用機仕様のシェルヴールだ」
「これを……私に?」
「お前の採用試験の様子は国連軍も見ていたんだな。艦長さんが直々にお前をスカウトしたいんだとよ。お前に話す前に保護者の俺に話を通しに来た」
「……てっきりおじさんが復隊する話をしてるのかと思ってた」
「こんなジジイはもう飛べねぇよ。それより行くんだろ、早くそれ着ろ」
藤孝は顎でF-4EJを指した。藤乃はそれを手にとると「あっち向いてて」と藤孝に後ろを向かせる。
藤乃に合わせて調整されている、と藤孝は語っていたが、あっているのは背丈くらいで、ぶかぶかの、見るからに「着せられている」ような姿だった。藤乃はまだ軍服に袖を通すには幼すぎるのかもしれない。
「藤乃、お前は空が怖いか」
「……わかんない」
軍服に着替え終え藤孝と背中合わせになった藤乃はすばるのことを思い出していた。
セプテントリオンに襲撃され、実際に死にかけたのは藤乃のほうである。だがすばるは藤乃以上に藤乃の命を心配し、恐怖に押しつぶされてしまっていた。
「私はあんまり怖くないけど……でも、怖いって気持ちは何となくわかった。誰かがやらなきゃならないことなら、私はやるよ。怖くないからじゃない……みんなを怖がらせないために」
「藤乃、俺はお前の親じゃねぇ。だからお前がやりてぇことに『ダメだ』っていう資格はねぇが……命を粗末にする奴に、俺と同じ名字は名乗らせねぇ」
「うん」
「だから生きて帰ってこい、藤乃」
「うん、約束する。じゃあ行ってくるね、お父さん」
藤乃は振り返ることなく格納庫を走り出した。