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 真新しい灰白色のシェルヴールを纏った少女が、カタパルトに立った。

 バックパックのデルタ翼。前腕部に広げられた大型カナード翼は、イングリットのドラケンの流れを汲んでいる。それもそのはず、今飛行試験を行おうとしているのは、イングリット用にレジーナ工廠から搬入された新型の『グリペン』であった。

 しかし、初飛行を担当するのはイングリットではない。


「カティア・ジェンティアナ。サーブ39グリペン……いきます」


 特務航空隊直掩隊の最年少隊員、カティアである。

 トーネードの機種転換訓練でもかなり上位の成績を収めていたカティアだが、年齢と任務の危険性から遊撃隊候補からは外されていた。

 そのことが彼女の闘志に火をつけたのだろうか。予備航空隊が直掩隊に再編成されて以来、カティアはあらゆる試験で優秀な成績を収め、グリペンを任されるに至った。

 飛行甲板を見下ろせるブリッジにペトラはいた。双眼鏡片手に、レジーナ工廠製の新型が空へ上がるのを見守る。ペトラがふと甲板を見ると、ヘシカとラウラがいた。ヘシカは両手で「カティアちゃん激推し」「対地視線たすかる」と書いた巨大なうちわをパタパタさせてアピールしている。


 ゴウとエンジン出力を上げたカティアがカタパルトを滑走していき、空へ飛びあがった。初飛行は無事成功したようだ。


「いいんですか、グリペン。カティアちゃんにあげちゃって」


 ペトラの隣にはイングリットがいる。隊長としての業務はそつなくこなしているイングリットだが、やはりふさぎ込んでいるようで、ペトラの問いかけにも無表情を崩さなかった。


「いいのよ。私はもう、飛べないもの」


 ペトラとイングリットが見守る中、カティアはマニューバ試験に移った。ターン、ループ、ブレイク、コブラ……予定通りに勧めたカティアは最後に、藤乃の失速マニューバを披露しペトラやイングリットに冷や汗を流させた。


「……イングリットさん」

「何かしら」

「何か、わたしと話したいことありません?」


 イングリットはしばらく黙っていたが、ぽつりと「今のところは大丈夫」と答えた。

 カティアの初飛行は模擬戦に移行している。相手はスサンナであった。


『ヒヨッコ、全力で来い。私も今、むしゃくしゃしてるところだ』

『ぶ、部隊長? あとでご、ご飯抜きとか……ないです、よね?』

「安心しなさい」イングリットがインカムで二人の通信に割り込んだ。「航空隊隊長として、模擬戦の勝敗で扱いに差を生まないよう、直掩部隊長に命じます」

『ひどいぞイングリット。私がそんな女に見えるか?』

『み、見えます……』

『なんだと! このヒヨッコめが! もう手加減せんからな!』


 模擬戦の結果は散々であった。

 いくら才気に溢れたカティアであっても、実戦経験ではスサンナには勝てない。瞬時の判断力と熟練した回避機動でスサンナはカティアを一方的に叩きのめし、甲板に帰還したカティアはペイント弾の粘着剤まみれで、酷い有様であった。


「スサンナさん、イライラしてるなぁ」

「きっと藤乃ちゃんのせいね。あの子のことは、スサンナも大分気に入ってたみたいだから」

「イングリットさんも、ですよね」


 イングリットは何も答えなかったが、ペトラはそれを肯定の意と判断した。

 甲板では、粘着インクまみれになったカティアをヘシカとラウラがタオルで拭いてやっている。スサンナにぼろぼろに負けたカティアだが、鼻息は荒く、目には闘志が漲っている。


「あの子たち、どうしてあんなに頑張れるのかしらね。もう戦争は終わったのに」

「好きなんですよ。きっと、飛ぶのが」


 セプテントリオンの脅威が去ったと言われても、まだ完全に無くなったわけではない。アリオト派に属さないセプテントリオンがいなくなったわけではないし、これから先、アリオト派に叛旗を翻すセプテントリオンが現れないとも限らない。

 だから、航空隊が直ちに無くなるわけではない。セプテントリオンとの生存圏を賭けた戦いが終わったというだけで、ペトラたちが飛ばなくなったわけではないのだ。

 それに――――ペトラは自問自答する。わたしの戦争は、まだ終わってなんかいないんだから。





 航空隊隊長私室に招かれたペトラにハーブティーを出し、イングリットは軍服の第一ボタンを外しながら呟いた。


「ペトラちゃん。私ね、空が怖いのよ」


 軍服を着崩したイングリット。その姿を、ペトラは初めて見た。

 以前は、彼女が半端な状態でいることなどなかった。イングリットといえば、身なりを整えてきっちりしているか、完全に脱いでプライベートになっているかのどちらかだった。イングリットなりの、心境の変化だろうか。

 着崩したイングリットだが、薬指に嵌めた指輪だけは絶対に外さない。ペトラが藤乃たちとこっそり覗いていた、あの日のプロポーズ。その日にキャサリンから貰ったものだ。


「こんな風に思ったことなんて、一度もなかった。怪我をしたことだって、任務に失敗したことだって何度もあるのに……。それでも、空が怖いだなんて、思ったことはなかったのよ」


 指輪をなぞるイングリット。


「今は空が怖い。とっても。空は私の大切な人を、簡単に奪っていってしまう」


 ひとしきり指輪をなぞり終えたイングリットは、ティーカップに手を伸ばすが。その手はぶるぶると震えていて、まともに飲める状態ではなかった。数センチ持ち上げたカップを、イングリットはソーサーに戻す。


「お互い覚悟はしていた。頭では分かっていたのよ。戦場を飛べば、いつか死に別れることだってあるって。でも……!」

「分かっていたって、辛いものは辛いですよね」


 ペトラはハーブティーを啜った。

 濃い味だった。甘さは弱く、すぅと鼻に抜ける香りは爽やかというよりも、冷たい感覚があった。イングリットが淹れる、いつもの優しい味とは違う。


「いっそ、シェルヴールで感情が全部無くなったら楽になれるんじゃないかって、思ったりもしたわ」

「ダメですよ、イングリットさん。今のは冗談として聞いておきますからね」


 ペトラはハーブティーを二口ほど啜り、カップをソーサーに戻した。


「ハーブティー、いつもありがとうございます。今日は何ですか?」

「ローズヒップにオオムギ、それから今日はミントを入れてみたわ」


 飲むには少々キツい味のミントティー。仮にそれを無理やり飲まなければいけないとして、味覚が無ければそれは幸せだろうか?

 ペトラはかつてその質問に答えたことがある。ミュンヘン租界の水族館で、藤乃に問われた時。

 不幸を感じなければ、それは幸せなのか。否。それは「幸せ」ではなく「不幸ではない」というだけだ。

 味覚が無ければ、ミントの強い辛味に苦しむことはない。だが、辛味の奥にある爽やかさを感じることも出来なくなってしまう。不幸を感じなくなれば、そこにあるささやかな幸せに喜ぶことも出来なくなるのだ。


「……少し前のわたしは、そういうのが入ってない、ただのお湯でした。味もない、香りもない。ただ、喉を通るだけのお湯。喉が渇いているのなら、ただのお湯でもいいんですけど。やっぱりわたしはハーブティーのほうが好きです」

「ツンとくる香りでも?」

「はい。刺激が強い香りでも、誰かと一緒に飲めば笑顔になれますから」


 笑顔を作ったペトラに、イングリットはおそるおそるカップに手を伸ばした。

 相変わらず、その手は震えている。両手で包みこむようにカップを持ったイングリットは、それをゆっくりと持ち上げ、口をつけた。


「……んっ」イングリットは顔をしかめた。「ちょっとミントが効きすぎたわ」


 涙目になっているイングリットに、ペトラは追い打ちをかける。


「でも、飲まないと勿体なくないですか?」

「そうね」


 イングリットはさらにハーブティーに口をつけた。

 強いミントの香りは、イングリットの目尻に溜まった涙粒をより大きくした。一杯の三分の一もいかないうちにそれは決壊し、イングリットの頬に涙が伝う。


「……これは失敗ね。飲むのがつらい」

「ええ、本当に」


 そういいながら、ペトラもハーブティーに口をつけた。

 イングリットがハーブの調合をしくじることなどありえない。ミントの入れすぎは意図的なもの――――ペトラには分かった。イングリットは、ミントの辛い味を口実に泣きたかったのだ。

 愛する人の死。遺された自分。悲しみを癒す間もなく襲い来る敵――――イングリットは幾度も折れかけ、今ここにいる。


 空は怖いところだ。有史以来、数千年に渡って人類の侵入を拒み続けたこの世界は、今でも人間の命など吹けば飛ぶ木の葉のように軽い。

 自分の命が軽いだけならば、まだ覚悟の持ちようだけでもどうとでもなるが。仲間、友人、家族――――軽い命が目の前でいくつも飛んでいってしまうのを、それが自然の摂理と分かっていても、人間は容易く受け入れられるものではない。


 辛い記憶はミントのフレーバーのようなものだ。一度入ってしまった味は、完全に取り除けるものではない。それでも、誰かと共有できれば、辛いことばかりでもいつか笑顔になれる。そんな気がする、ペトラであった。

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