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 藤乃がブリッジに入るのは、長いスパルヴィエロでの生活の中で初めてであった。

 第一艦橋。艦長が座し、艦全体の統制を担う部署である。スパルヴィエロの艦橋は前に向かって大きく矢印のようなをしていて、百人は優に入れそうな広さがある。前方に向かう先端部の両側には各種のコントロールステーションがずらりと並んでいて、後方はテーブル上に立体映像で周囲の地形や敵情を映し出した作戦ルームと接続されている。

 正三角形の中心で、ひと際大きな座席がくるりと回って藤乃のほうを向いた。座っているのはスパルヴィエロ艦長の、グロリア・リグーリア中将である。


「どうした少尉」

「すみません、艦長。リンファを探していまして」


 隣に立っていたイングリットが艦長に耳打ちをしている。


「ああ、ホアン少尉のことか。彼女なら今机上訓練室にいるはずだ」

「机上訓練室……!」

「ここに呼ぼうか、少尉」

「いえ、結構です。私が行きます」


 藤乃は礼をしてブリッジを後にした。

 リンファの職場。航空隊員の格納庫とはまた違った緊張感がある。あんな場所で、リンファはちゃんと働けているのだろうかと藤乃は不安になった。



 机上訓練室は、藤乃がキャサリンに出された課題をクリアしようとずっと籠っていた時期もあったので、場所に迷うことはなかった。扉の開閉音はごく静かで、藤乃が部屋に入ったことにリンファは気が付かなかった。


「チャーリー・チームの行動パターンをアルファワンからイオタトゥウェルヴに変更」


 コンピュータが電子音で答え、空中に投影された机上訓練棋が動きを変える。藤乃はシミュレーションを見て驚きのあまりに声を失っていた。味方の機体数は三十二機、しかもリアルタイムの指揮でリンファは戦況を覆そうとしている。


「……オスカーチームは負傷した隊員を連れて後退。後方から援護射撃。空いた穴はフォックス・チームがカバー」


 一人、また一人と航空隊員が戦域を離脱していくが、リンファは最終的にシミュレーションで勝利を収めていた。しかも、表示されたリザルトによれば負傷者は多いが死者がいない。


「……すごいね、リンファ」

「ふ、藤乃⁉」


 シミュレーションの立体映像が切れて、ようやくリンファは藤乃に気が付いた。


「戻ってたんだ……ごめん、甲板まで出迎えにいくつもりだったのに」

「ううん、いいよそんなことは。リンファが元気そうで良かった」


 藤乃はリンファに近づき、シミュレーション用の机上演習機を見上げた。

 ここでキャサリンの言った言葉――――前線指揮官としての心構えは、今も藤乃の聴覚神経に焼き付いている。


「私は、味方三人のシミュレーションでも相当苦戦したのにな」

「人数が少ないほうが難しいよ。航空隊員は多ければ多いほど、一人の負担は少なくできるし」


 そういいながら、リンファは次のシミュレーションを開始した。

 表示される二機のシェルヴール。一機はセイバーモード、もう一機はアーマーモードである。随伴機はプラウラーが数機のみ――――アンカレッジ租界での防衛戦を再現したものだ。


「アルファ・ユニットは大型目標を撃破。チャーリー・チームとデルタ・チームはそれを援護。戦術パターン、ガンマツー」


 シミュレーションが走り始めると、セイバーモードのシェルヴール(おそらくペトラを表したものだ)が、プラウラー二編隊を引き連れて巡洋型セプテントリオンの迎撃に向かう。


「ブラボー・ユニットは上空からセプテントリオンの群れを遊撃。戦術パターン、イプシロンフォー」


 もう一機のシェルヴール(藤乃を表したものだろう)は高度を上げていき、上空を旋回しながらセプテントリオンの群れを捕捉、急降下強襲をしかけていく。


 理想的な展開だ――――傍から見ている藤乃でも分かる。敵の主戦力を最小限の人数で叩き、残りのメンバーは進路と退路の確保を行う。

 しばらくして、またもリンファはシミュレーションに勝利した。だが、藤乃が覗き込んだリンファの表情は、ひどく強張っている。


「……ねえ藤乃」


 リンファがシミュレーションの電源を落とす。


「藤乃もこのシミュレーション、やったんだよね。どうだった?」

「……ぜんぜんだめ」

「どうダメだったの」

「私の力じゃ、誰かを犠牲にする戦術しか考えられなかった」


 リンファは指揮官としては藤乃よりずっと優秀である。それはシミュレーションの結果を見るだけでも明らかだ。誰かを犠牲にすることを拒否して敗北を重ねた藤乃と、多少の負傷者は許容してでも確実に最終的な勝利を掴めるリンファでは、素養や思考過程に違いがありすぎる。


「リンファ。航空隊に戻ってこない?」

「なんなの。イングリット隊長の差し金?」

「違うよ。私が戻ってきて欲しいだけ」


 リンファは黙ってしまった。じっと動かず、藤乃を見つめている。

 藤乃も動かず、リンファをじっと見つめ返す。しばらく見つめ合っていた二人だが、先に沈黙を破ったのはリンファだった。


「……なんで?」

「なんでって……言っていいのかな……。まあでもリンファも少尉だし、いいのかな。このことは正式な発表があるまで秘密にしてね。航空隊を再編してね、遊撃小隊を組むことになったんだ」

「アタシにそれに入ってくれって?」

「うん。小隊長は私。リンファがそばにいてくれたら、とっても心強い」

「ふーん?」


 藤乃の第一の想定ではここで「いいよ」と言ってくれるはずだったのだが、やはりそう簡単にはいかない。


「ほら、リンファは部隊指揮の才能あるし。それに飛ぶのだって上手いし。遊撃小隊には新しいシェルヴールを優先的に回してくれるって。きっとリンファならトーネードでも飛べるよ。イングリットさんだってリンファのこと、腕がいいって褒めてたんだよ」

「……それだけ?」

「それだけって?」

「はぁ……。あのさぁ藤乃。藤乃ってキャサリン隊長に似てるって言われたことない?」

「いや……? ないけど」


 日本人の中でも比較的貧相な体つきの藤乃と、アメリカ人の中でもそこそこ高身長なキャサリンとでは、目立った共通点といえば「人間である」ということぐらいである。


「ほんとさぁ。藤乃って、そういうとこがダメなんだから。自覚してね?」

「え⁉ 何が⁉ どういうとこがダメなの⁉」


 リンファは藤乃の質問に答えることなく、机上演習機の電源を再度入れた。


「演習、ファイル10267を呼び出して」


 電子音で答えたコンピュータが、演習機に投影した映像の中に味方と敵の兵棋を置く。

 敵は一機。ただしその戦闘力はシェルヴール以上。味方はシェルヴール三機のうち一機は重傷、一機は軽傷。万全の状態で戦えるのは一機だけ――――藤乃がキャサリンを置いて撤退した、あの状況の再現である。


「この状況、藤乃ならどうする?」


 藤乃は答えられなかった。


 あの時。キャサリンがMIAとなったイヴとの戦闘。あの時、あの場にいた藤乃が為すべきことはなんだったのだろうか。

 重傷者のスサンナを置いてキャサリンと藤乃の二人がかりならば、イヴは倒せたかもしれない。だが、そうすればスサンナは出血多量で手遅れになっていただろう。

 ならば三人で撤退あるのみ。しかし、イヴは明らかに藤乃たちよりも飛行速度で上回っていた。逃げられるとは到底考えられない。

 いっそ、軽傷者が殿を務めればどうか。だがそれは藤乃の願望でしかない。キャサリンに代わって、自分が犠牲になるというだけの。

 誰かしらの犠牲は、避けることができない――――


「イングリット隊長から机上演習訓練を受けてみないかって言われてね。課題をやっているうちにこれを見つけたんだよ。それから毎日毎日、どうにかして三人ともを生かす方法を探した。でも、見つからなかったんだ」

「……リンファでも、ダメなの?」

「うん。この状況じゃ、どんなに頑張っても二人までしか助けられない。二人だけを助ける最善の戦略。それは無傷の一機が敵と相打ちに持ち込んで、軽傷者と重傷者を撤退させること」


 リンファが述べているのは、キャサリンの取った選択と同じものである。


「その時アタシは思ったんだよ。仲間を死なせたくないのなら、そもそも犠牲を払わないといけない状況を、避けるようにしないとって」


 そのための、作戦行動支援官なんだ。リンファはそういって、軍服の袖を詰まんで藤乃に見せつけた。航空隊員とは違う制服。シェルヴールに変化することのない、至って普通の、袖の飾り帯が「少尉」の階級を示す軍服。


「アタシはもっと大局的に、部隊のみんなが命を張らないといけない状況を避ける戦術を考えたいんだよ。だからこれがアタシの戦い。藤乃たち航空隊員が、絶対に生きて帰れる状況を作るための作戦立案。アタシの戦場は、ここだ」


 リンファは航空隊には戻ってこない。藤乃はその事実を受け入れるしかなかった。

 だが、藤乃はそのことについてもやもやした気持ちはなかった。リンファはリンファなりに考え、航空隊を抜けてブリッジクルーとして生きる道を選んだのだ。


「……応援するよ、リンファ」

「ありがと、藤乃」

「戻ってきて欲しいって気持ちは嘘じゃないよ。でも、リンファの戦場も、きっと私と繋がってるって思うから」

「繋がってる?」

「私の心神改ね、日本に置いてきちゃった友達が作ってくれたものなんだ。覚えてる? 函館で、予備航空隊のみんなと飛んだときのこと」

「覚えてるよ。藤乃がお別れを言うために、一緒に探したよね」

「その子にミュンヘンで会ってさ。スパルヴィエロに来ないかって誘ったんだよ。でも、断られちゃった」

「フラれたんだ」

「いや、そういうわけじゃないけど……。ミュンヘンを出るときにね、その子に言われたんだ。『きっと、空はどこかで繋がってる』って」

「空は、繋がってる……か。いい言葉だね」

「昔からお父さんに言われてたことがあるんだ。どんなに時代が進んでも、人間は自分の力で空を飛ぶことなんかできない、空に『飛ばせてもらう』んだって」


 風に乗って飛ぶように。人間はまだ、空を「飛ばせてもらって」いる。

 今の藤乃は、その言葉の意味をより深く理解できる。戦場の空も、一人で飛ぶのではない。仲間がいて、整備クルーがいて。シェルヴールを作った人、藤乃たち航空隊員の毎日の生活を支えてくれる人。彼ら彼女らの存在が、がんばりがあってこそ、藤乃は空を飛ぶことができるのだ。

 藤乃の翼にかけられた願いや祈り、そして夢は、藤乃だけのものではない。


「リンファの願いも夢も、私が背負って飛ぶよ。私の心神改は、そういうシェルヴールなんだ」

「ふん。朴念仁のくせにさ、カッコつけちゃって」


 リンファが藤乃の額を指でピンと弾く。

 ひりひりする痛さに藤乃は額を押さえたが、リンファはそんな姿を見てけらけらと笑った。

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