③
エンジンスロットルを最大まで上げた藤乃は、一気に雲の上まで飛びあがった。
三秒足らずで一気に遷音速域まで到達する加速性能。旧来の戦闘機の数倍にもなるその加速は「暴れ竜」と表現するのも烏滸がましいものだ。
加速するシェルヴールを纏うパイロットの血液には慣性力が働く。『心神改』の最大加速でかかる慣性力は重力の約十倍。パイロットの脳に血液がいかなくなる「ブラックアウト」を引き起こす。
神経系がセプテントリオン化して中枢神経機能が強化された藤乃でなければ、スロットルを最大にしただけで死の危険が伴う。すばるは放っておいたらマッドサイエンティストになりそうだな、と藤乃は『心神改』の耐G機能付きインナーの中で鳥肌を立てた。
雲の上に出るとシェルヴールのセンサーが敵の存在を告げる。藤乃はスロットルを戻しながら水平飛行に移行し、戦場へ近づいた。
縦横無尽に飛び回るタイフーンとトーネード、そしてテディベア。その中にいる異質なものは否応にも目立つ。片方はセイバーモードを発動したペトラ、そしてもう片方は白髪で丸耳を頭頂部に生やした少女――――姿は変わっているが、纏う雰囲気は変わっていない。イヴ・レプラカーンである。イヴはサムライ型のセプテントリオンを四体従えており、武器も以前の槍から両手に装備した鋭いアイアンネイルに変わっている。
「……まずは防空隊のみんなからだ」
思考を先取りするように、『心神改』は防空隊に迫るセプテントリオンをマルチロックし、ウェポンベイからAIM-120を連続発射する。
藤乃の存在に気づいたミュンヘン防空隊が、ドイツ語で何かを言っているが藤乃には分からない。仕方なく藤乃は英語で呼びかけた。
「怪我人はいますか? 『白いの』の対処は私とペトラさんに任せてください。交代しながら補給を」
『それ、ニッポンのシェルヴールでしょ! 大丈夫なの⁉』
「はい」
藤乃の存在に気づいたのはミュンヘン防空隊だけではない。仲間をミサイルで撃ち落とされたセプテントリオンもまた、藤乃を察知して向かってきた。
砲口を開き、機関砲を起動する。全身に追加された補助翼が開き、藤乃はローリングしながら最小弾数の発砲でセプテントリオンを撃墜していく。真上から接近してくる敵に、藤乃は機首を起こし、コブラ機動のまま発砲してすべて撃ち落とした。
『ワオ……』
曲芸飛行顔負けの戦闘機動は、まるで氷上を舞うフィギュアスケーターのよう。防空隊の面々も藤乃に驚いている。
彼女らもシェルヴール使いであり、また『心神改』の暴れ竜っぷりを一度は目にしているものたちである。それを完全に乗りこなす藤乃に、驚愕しないわけはなかった。
『『姫さん』には近づくなって言われたけど、アンタならいけそうね。みんな、この子を援護しよう』
『イエス、マム』
ミュンヘン防空隊と即席の編隊を組み、藤乃は戦禍の中心へと向かっていく。
藤乃が到着したとき、ペトラはサムライ型の群れと交戦しながらイヴの攻撃をいなしているところであった。ペトラの起こす風はイヴたちの接近を許さないが、伸ばす糸による攻撃は容易く切り払われてしまうので相性は最悪である。
吹き荒れる嵐にバランスを失いかけながら、藤乃はペトラにレーザー通信を繋いだ。
「ペトラさん!」
『ウスイ少尉、ここは危険です。わたしに任せて』
「そうは、いきませんっ」
藤乃の小さな体を、突風が煽った。
エンジン出力を上げてそれを凌いだ藤乃は、なおもペトラに近づく。
「私はもう……仲間を一人で、戦場に置き去りにしたくないんですっ!」
イヴのほうも藤乃を見つけた。ペトラに向かっていっていた四体のサムライ型がすべて、藤乃に向かってきた。
相変わらずのチョンマゲ頭に羽織袴のヘンテコな姿をしたテディベアである。しかし、その強さは折り紙付きだ。藤乃は機関砲で迎撃したが、銃弾は容易く切り払われてしまった。
それなら、と藤乃はウェポンベイからサイドワインダーを射出する。しかしレーダーロックの効かない相手では、直線的に飛行するミサイルは容易く避けられてしまった。
「やっぱり、セイバーモードじゃないと……!」
サムライ型と初遭遇したときの記憶が、藤乃の脳裏に焼き付いている。
藤乃はセイバーモードの起動に失敗、そのせいでラヤーンは片足を失い、航空隊を辞めることになってしまった。もしこの場で同じ状況になったら?
あの時はサムライ型セプテントリオンが一体だったが、今は四体いる。その上さらにあのイヴ・レプラカーンまでいる。ここで『心神改』が機能停止したら、ペトラは絶体絶命の窮地に陥ってしまう。
イヴは右手に装備した爪を腕ごと高速回転させてドリル状にし、対するペトラも操る糸をまとめ上げて円錐状の武器にしている。互いの武器がぶつかったが、イヴのほうが硬度も強度も上であった。打ち砕かれたペトラの武器は糸がちぎれ、その破片がペトラの頬を切って飛び散った。
迷っている暇はない。刀を振り下ろして斬りかかるサムライ型を避けた藤乃は、雲の高度のさらに上まで高度を上げる。
どこまでも遠く、藤乃の眼前に広がる空。そこにはセプテントリオンもいない。
空の無限の広さは、無限の深さでもある。どこまでも続く空にいると、まるで自分がはるか彼方の世界まで放散してしまうような感覚に陥る――――藤乃はゆっくりと目を閉じた。
風を感じる。冷たさを感じる。戦場のひりつく空気を感じる。
そういえばお父さん言ってたっけ。いつか、お前も空が怖くなる日がくる――――その日は、いつ来るのだろうか。それとも、もう通り過ぎたのだろうか。
藤乃は恐怖を感じない。怖いもの知らずではない。セプテントリオン化している藤乃の中枢神経は、人間の「恐怖」を正確に再現できていない。
だが、怖いものは分かる。幽霊、ゾンビ、そしてセプテントリオン。人間にとって、理解の及ばない存在。そして、仲間や友人の死。
空は怖い場所なのだろうか。
ミュンヘンで再会してからずっと、すばるは藤乃に対して「飛ぶのをやめろ」と言い続けていた。すばるにとって藤乃の死は最も恐れることだからだ。
空は怖い場所なのだろうか。
どこまでも深いこの空で、キャサリンは死んだ。その遺体は見つからなかった。きっと空の果てまで、落ちていってしまったに違いない。
明日の戦場は、藤乃たちの命を容易く奪う。それでも。
藤乃は戦場を飛ぶ。
空は怖いところだ。空は人類の侵入を有史以来数千年に渡って阻んできた。
シェルヴールは、セプテントリオンを真似た技術の力だけで飛んでいるのではない。それを纏う藤乃は、風に乗せてもらっている。いつからか、それを意識しなくなってしまっていた。
人間は、自分の力だけで空を飛ぶことはできない。
飛行機。そしてシェルヴール。それを作り、そして整備してくれるエンジニア。一緒に飛ぶ仲間。風だけではない。シェルヴールとそれを支える人々もまた、藤乃に翼を与えてくれるものだ。
藤乃にとって大切なもの。かけがえのないもの。そして、護るべきもの。
「……セイバーモード」
戦うだけが私たちのすべてじゃない。そう語ったキャサリンは、戦場でその命を散らした。
あれだけ藤乃に生きて帰ってくることが大事だといっていたキャサリンは、自ら殿をして、命を落とした。
藤乃はキャサリンの死に憤った。
自分の日常は自分で守れといったくせに。
イングリットさんに、幸せにするって約束していたくせに。
毎週必ず店に来いといっていたくせに――――
何かを欲すれば、何かを失う。
キャサリンは言った。人間は万能じゃないから。セイバーモードが感情を食らう怪物だったように。藤乃とスサンナを生かすために、キャサリンが殿を引き受けたように。
隊長の死は、尊い犠牲だったのだろうか。
大を生かすために小を切る残酷な現実を、受け入れるしかないのだろうか。
藤乃の体を、疑似有機繊維の繭が包み込む。
それでも。
護るべき誰かの日常があるなら、護られるべき私たちの日常があっていいはずだ。
もう誰も、犠牲になんかしない。見殺しになんかしたくない。
奇跡の少女、人類に希望を与えた『イヴ』が私なら。あともう一度、奇跡を起こして希望を与えてくれてもいいはず。
これはそのための力。それを為すのが、私のやりたいことだ――――
弾ける繭から、藤乃は新たな姿となって飛び出した。
スカイブルーに白を差した紋付に袴。鉢巻を巻いた和装のようであるが、肩部分から先は分かれて袖だけが独立している。
これが『心神改』の、否、碓氷藤乃のセイバーモードである。




