⑤
それから後のことは、藤乃はほとんど覚えていない。
通信が切れ、ソファにぐったりと背中を預けた藤乃は、頭の中が限界マニューバの後のようにぐわんぐわんと揺れていた。
「ウスイ少尉。F-4EJ改を解析して、あなたがセイバーモードを使おうとしたときに何が起きていたのか、ログを回収しました」
ヨハンはタブレットに研究員の書いたレポートを表示する。
ドイツ語で書いてあると藤乃にはまるで読めなかったが、すばるはタイトルを見ただけで口を手で覆ってしまった。
「シェルヴールには、セプテントリオンによる侵食に抵抗する機能があります。あなたはそれによって『ファントム』から拒絶されていた」
そんなことが出来る人間はいない。
シェルヴールの疑似有機繊維を侵食できる人間など、いるはずがない。この世に、たった一人の例外――――シェルヴール由来ではない、オリジナルのセプテントリオンの有機繊維が、神経組織に置換されて入っている人間。つまり「イヴ」その人を除いて。
「日本政府も情報開示を渋るわけですね。あなたはかつてシェルヴールの開発のために、非情な人体実験に晒された。その素性を隠したがるのも、日本政府があなたの平穏な暮らしを望めばこそというものでしょう」
「私が……『イヴ』」
「信じられないかもしれませんね。私たちだって信じられませんでした。ですがペトラが家族に話してくれていた、あなたのことを思い出したんです。『生まれつき恐怖を感じない』……セイバーモードの副作用と同様の症状です。つまり、あなたの体内には、セイバーモードを使う前からセプテントリオンの神経線維が入っていた」
「ちがいますっ」
うつむいて動かない藤乃の頭を、すばるは抱え込むようにして腕を回した。
「藤乃は……藤乃は藤乃です! イヴなんかじゃない!」
「はい、それは分かっています。当社としても、あなたのプライベートを広く世界に公表しようなどという意図は一切ありません。だからこそ、こうして社長室までご足労頂きました」
ヨハンがすばるを排除しようとしたのも、藤乃の秘密を知る人間を、一人でも少なくしようとした行動だったのに違いない。
「その上で、お伺いしたいのです。我々の研究にご協力いただけないでしょうか、ウスイ少尉」
「研究、ですか」
「はい。シェルヴールのセイバーモード、その副作用を克服するための研究です」
ドスン、とすばるはテーブルを両手で叩いて身を乗り出した。
「ダメです!」
「すばる」
「藤乃はイヴじゃない! 実験動物じゃないんですよ!」
「すばる、落ち着いて」
藤乃に裾を引っ張られて、鼻息を荒くするすばるは不服そうな表情のまま椅子に座り直した。
「だから、お願いしているのです。ウスイ少尉、あなたの体内にあるオリジナルのセプテントリオン繊維を分析すれば、何か分かることがあるかもしれない」
「はい。私で、役に立つことがあるなら」
「ちょっと藤乃!」
すばるが藤乃の腕を掴む。
「すばる」藤乃は掴んでいたすばるの手を解いた。「これは、私にしかできないこと……なんですよね、社長」
「イヴの……つまり、かつてのウスイ少尉から採取された神経繊維についてのレポートはほとんど現存していませんが、断片的なデータを見る限り、人間の神経ともシェルヴールの疑似繊維とも異なる、特異な変化を経たものであると考えられます。セプテントリオンの有機繊維がどのようにして人間の神経を代替するに至ったのか、それが分かれば、セイバーモードの副作用克服も、不可能ではないかもしれません」
「だからって……っ! 藤乃のバカ!」
すばるは社長室を飛び出していき、その場には藤乃とヨハンが残された。
「やります、私。やらせてください、社長」
藤乃は決意を込めた眼差しをヨハンに向ける。
これは藤乃にとっての罪滅ぼしのようなものだ。藤乃を救うためにペトラは限界を超えてセイバーモードを使用し、そして感情を全て失ってしまった。
その責任を果たせるのなら。もし自分の体の中に、ペトラが感情を取り戻すための手がかりがあるのだとしたら。腕の一本でも失ってもいいとすら藤乃は思った。だが、決意を固めた藤乃に対して、意外なことに、藤乃に協力を依頼してきたヨハンのほうが何故か及び腰で、戸惑うように目を泳がせている。
「先ほどのフジタカさんとの会話、私には日本語は分かりませんが、聞いていて一つ感じたことがあります。フジタカさんは、貴女を本当の娘さんのように愛している」
ヨハンは膝の間でぐっと両手を組み合わせた。
「フジタカさんがあれだけ貴女の出自を語ろうとしなかったのは、おそらく貴女に『普通の女の子』として人生を送って欲しかったからでしょう。ですが、娘を愛し、そして『普通の女の子』として、幸せに生きて欲しいと願う気持ちは私も同じだ。ペトラのことを、私は誰よりも愛している」
ヨハンの目線が藤乃を捉える。
「だからこそお願いしたい。航空隊に所属する『普通の女の子』のあなたにではなく、かつて人類に勝機をもたらした、奇跡の少女『イヴ』であるあなたに」
その目にはもう一切の躊躇も後悔もない。藤孝の娘を想う気持ちが分かるからこそ、自分の娘を想う気持ちも分かってほしい――――。藤乃もその視線に、真正面から打ち返して応える。
「ペトラさん、ミュンヘンに来るとき『租界を壊す』って言ったんです。『そうすれば誰もシェルヴールに頼ろうなんて思わないはずだ』って」
藤乃の言葉に、ヨハンも目を丸くして体を引く。
「そのペトラさんが、私を救ってくれた。何より私の命を優先してくれて。私、ペトラさんに誓ったんです。私がペトラさんの『王子様』になってあげるって。ペトラさんがペトラさんらしくいられる、そんな場所を守る人になろうって。だから今度は私が、ペトラさんを救う番です」
「神経サンプルの採取には痛みも伴いますし、麻痺も出るでしょう。それでもやってくれますか、ウスイ少尉」
「今更二言はありません。それが私の、『やるべきこと』なんです。きっと」
差し出したヨハンの手を、藤乃は掴んで握手を交わした。
藤乃の神経サンプルの採取は簡単に終わった。
術後は良好であったが、脊髄から神経を切り出す手術である。当然全身に麻痺が残り、藤乃はまた病院のベッドに逆戻りとなった。
手術後一週間経っても、すばるはあの日社長室を飛び出したきり、藤乃の見舞いには現れなかった。病院の窓から見えるミュンヘン租界の街並みを眺め、すばるは今頃どこで何をしているだろうと思いを馳せながら。藤乃はベッドの上に寝転び、足を動かす簡単なリハビリを繰り返すばかりである。




