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 車椅子から離れた藤乃は、松葉杖をつきながらの歩行リハビリを始めた。医者も驚くほどの急速な快復を示す藤乃は、ミュンヘンに着いて一週間もすると、介助者のすばるの付き添いを条件に、病院から外出の許可ももらえるようになった。


 ミュンヘン租界を案内するというすばるがまず一番に藤乃を連れてきたのは、件の水族館であった。


「アカデミーではね、いろんな研究をしてるの。この水族館もそう」


 薄暗い館内、目の前に広がる巨大な水槽には、銀色の体を煌めかせる魚が群れを作って泳いでいる。藤乃は思わず「わぁ」と感嘆の声を漏らした。

 なにせ、藤乃にとって「魚」という生き物を生きた姿で見たのは、生まれて初めてのことである。存在は映像資料で知っていたし、石巻租界でも外から天然食材が全く入ってこないというわけではないので、料理になった魚を目にすることは何度かあった。

 生きた魚の群れは、その全体像を楕円に、三日月形に、そして涙滴型にと自在に形を変えながら、水槽の中を縦横無尽に移動している。


「どうしてあんな風に集まってるの?」

「捕食者に自分の姿を大きな魚みたいに見せるため、って言われてる。それに、あれなら一匹が襲われても、その隙に他の魚は逃げられるんだって」


 群れの中を割って、巨大な魚が現れた。

 小魚の群れはワッと左右に割れ、また合流して大きな群れに戻る。中央を割った巨大な魚を、すばるは「サメ」と呼んだ。

 あの小魚が人間だとすれば、あのサメはセプテントリオンにあたるのだろうか。ヒトは集まって群れをつくり、捕食者に対して虚勢を張るしかない。そして捕食者から逃れて多くを生かすために、群れからはぐれたものは犠牲者となる――――キャサリンの言葉が、藤乃の耳に幻聴として響く。一人を犠牲に多くを救える状況で。前線指揮官は、その非情の選択をしなければならない。


 群れからはぐれた仲間を、尊い犠牲者を、見捨てる選択をしなければならない。


「……藤乃、大丈夫?」

「ううん、大丈夫。ちょっと、思い出しちゃっただけ」


 サメは小魚を食べなかった。ただ悠然と泳ぎ、小魚はただ本能的に逃げ回っているだけである。


「気分悪いのかな。それとも水族館、嫌い?」

「ううん、そうじゃないんだ。ただ、人間とセプテントリオンの関係みたいだなーって、そう思っただけ」

「……藤乃。もっとキレイなとこ行こ」


 すばるに手を引かれて、藤乃は水族館の中をさらに進んだ。松葉杖をつきながらすばるについていくのは中々に骨が折れた(比喩)が、楽しそうなすばるを見ていると、藤乃もなんだか楽しくなる。


 巨大な水槽の次のコーナーはサンゴ礁の海であった。

 水槽の底に並んだサンゴは色とりどり、形も様々だ。赤い樹枝を四方に伸ばしたようなものもあれば、青緑色の皿状をしたもの、黄色の小さなストローを無数に生やしたような形のもの――――そこに統一感はないが、ヒトの作る理路整然とした美しさとは違う、美しい乱雑さがそこにある。

 サンゴの間や上を泳ぎ回る魚も様々だ。黄色、白、黒、青。色も多様だがそれ以上に体のつくりも模様も様々だ。背びれが大きく発達したもの、細長い口をしたもの。オウムの嘴のような歯を持った大きな魚もいれば、小指ほどの大きさの小さな魚もいる。

 藤乃はすばるとならんで水槽に目を輝かせ、「わぁ」と言葉にならない感動を、開けた口から垂れ流すしかなかった。


 水槽の近くにはパネル展示もある。英語で書かれたそれを読むことはできたが、名前は学名で書かれると分からない。藤乃とすばるが情報端末で検索すると、パネルの一つは熱帯魚の一種である「タテジマキンチャクダイ」についてのものだと分かった。


「へー。こっちの黒い渦巻模様が幼魚で、こっちの黄白のシマシマが成魚なんだって」

「横縞なのに『タテジマ』なんだ」

「魚は頭を上、尻尾を下にして向きを考えるから、横縞に見えるのを縦縞って言うんだって」

「へー」


 名前の由来もそうだが、子供と大人で模様が大きく変わっているのも不思議である。親魚は自分の子供を子供として認識できるんだろうか、と疑問に思った藤乃だが、すぐにその疑問を頭から追い出した。魚は親子を相互に認識する必要がない。


「大人と子供の中間はどんな模様なんだろうね」

「確かに」


 見た目の変わりようを強調する意図があってのことだろうが、展示にあるタテジマキンチャクダイの写真は幼魚と成魚の中間がない。情報端末で調べてみても、タテジマキンチャクダイについて「成魚と幼魚で見た目が違う」以上の情報はなかなか出てこなかった。


 大人と子供の間。ふと、藤乃は横にいるすばるの横顔に視線を移した。

 そこにいるのはすばるだ。すばるのことを藤乃は誰よりもよく知っている。一つ上の歳で赤縁の眼鏡を愛用していること。犬より猫派であること。農業リソースの少なかった石巻では特別な日にのみ出される、ふかしたサツマイモが好物であること。

 だが、今のすばるは昔の、藤乃がよく知っていたすばるとは変わってもいる。かつてのすばるは泣き虫で、何をするにも周囲の意見を聞かないと動けない子だった。そのすばるが今は、自らの意志で留学を決め、遠く故郷から離れたミュンヘンの地で、藤乃と奇跡的な再会を果たしている。

 横顔が大人びて見える。石巻では顔を合わせない日なんてなかったくらい身飽きていたはずのすばるの顔が近づくと、藤乃は意味もなくどきどきした。


「……すばるってなんだか、大人になったよね」

「そうかな」

「私もあと一年したら、すばるみたいになれるかな」

「どうだろ。分かんないね」


 隣のパネル展示に移ると、そこには「キュウセン」という魚の生態について書かれていた。

 キュウセンは雄雌で見た目が異なり、オスは緑色、メスは桜色をしている。そんなキュウセンだが、生まれたとき雌だった個体が、成長すると雄に変化するという。そのため、緑色をしたキュウセンはすべて元メスのオスであるという。


「不思議だね」

「藤乃はどう? 男の子になりたい? それとも誰かに男の子になって欲しい?」

「……そんな、前提としておかしいことを、さも当たり前に起こりうることみたいに聞かれても答えられないよ」


 人間はそんなに便利ではない、と否定したいところだが、藤乃もペトラとリンファに男装させられたことがある。

 スパルヴィエロの航空隊は予備隊員を含めてほとんど女性である。そもそも人類全体の男女比が偏っていて国連軍に志願するのが女性ばかりだとか、プラウラーがそれほど体格の大きな男性が使うように設計されていないだとか、艦内の隊員用施設が女性用ばかりだとか色々理由はあるが、ともかく女性ばかりの集団であるのは否定しようがない。その中にあって、最も女性らしくなかった隊員といえばキャサリンだろう。

 豪胆で、料理下手で。イングリットからは「女心ってものが分かってない」と評されていたキャサリン。奇しくも、キュウセンの生態は「一体の雌が雄になって多くの雌を率いるハーレムを形成する」と説明されている。

 まさか自分に小隊長としての教育を施そうとした理由って――――藤乃はよくない考えに囚われそうになり、意識をパネルから離して水槽に向ける。


 さっきまで気がつかなかったが、水槽の前には軍服を着た一人の少女がいた。

 ペトラである。

 ペトラはじっと水槽を見つめている。小さい空間にサンゴ礁を切り取ったような、華やかな水槽の中の世界を。


「ペトラさん?」

「ウスイさん」


 藤乃の問いかけにペトラは顔を向けた。

 相変わらず表情はない。藤乃がおずおずとペトラに近づくと、すばるもその後ろについて歩いてきた。


「……ペトラさん、水族館お好きなんですか?」

「はい。幼い頃のわたしは、水族館が大好きだったと父が申しておりました。そのはずなんですが」


 水槽に視線を戻すペトラ。


「分かりません。どうして、わたしは水族館が好きだったんでしょうか。ウスイさんは、この水槽をどう思いますか?」

「綺麗、だと思います」

「そうですか」


 隣にいても、藤乃はペトラと距離を感じる。

 スパルヴィエロにいたころなら、こんな場所ならペトラはきっと藤乃に抱き着きたがっていただろう。魚の群れに目を輝かせ、サンゴ礁の色鮮やかさに飛び跳ねていてもおかしくはない。

 だが今のペトラは、美しいものを美しいと思う、そんな感情すらも失ってしまっているのだ。それを失わせてしまったのは、藤乃に他ならない。


「お友達、ですか」

「はい。すばるっていいます。私の幼馴染です」

「中嶋すばるっていいます。レジーナ工廠には、アカデミーの留学プログラムでお世話になっています」

「ペトラ・ニヴァル・レジーナです」握手を交わすペトラとすばる。「ミュンヘンはいかがですか」

「はい。とってもいい場所ですね」

「それはよかった」


 ペトラは口角を緩ませたが、目は笑っていない。ペトラから手を離したすばるは、ひっこめた右手を胸の前で左手に包む。


「仕事もひと段落したので、父から水族館に行ってきなさいと命令されました。なぜでしょう……まったくわかりません」

「……ペトラさん、辛くないですか」

「辛い?」ペトラは水槽から藤乃へ視線を移す。「なぜです?」

「綺麗なものを綺麗って、楽しいことを楽しいって、感じられないなんて……」

「そうですね」ペトラは水槽に視線を戻し、回遊する魚の群れを指差した。「ではウスイさん。あの水槽の魚は、不幸だと思いますか?」

「え……?」

「広い海を知らず、狭い水槽の中で一生を終える。それは彼らにとって、不幸なのでしょうか」

「魚はそんなこと考えないと思いますよ」

「それと同じです」ペトラが指さした手を下ろす。「幸せを感じる心がなければ、不幸でもないんです」

「……っ」


 藤乃は何も言えなかった。

 ペトラをこんな状態にしてしまったことに、藤乃は責任を感じている。ペトラは不幸だなんて思っていない。そもそも、不幸だと感じることもできないから――――それは、藤乃の罪悪感を強くすることはあっても、和らげることはない。

 水槽を見上げるペトラの横顔。笑いも怖がりも、何もなくただ機械的に「そうしろ」と言われたからしているだけのペトラに、思わず藤乃は涙をこぼした。


「藤乃……?」

「ごめん……なさい。ペトラさん……私、のせいで……!」


 その場に泣き崩れた藤乃の横で、松葉杖が転がってカランと鳴った。


「どう、お詫びをしたらいいのか……。もう、取り返しがつかないって、分かってますけど……!」


 どうして世界はこうも残酷なのか。藤乃は嘆くしかない。

 藤乃は未熟である。これは、未熟である藤乃が戦場に出たことへの罰なのだろうか。それなら、なぜ不幸は藤乃自身に降りかからず、周りにばかり降りかかるのだろう。


 殿を務めて散ったキャサリン。

 セイバーモードの副作用で感情を失ったペトラ。

 これ以上、自分のために誰かが傷つくのはイヤだ――――ポケットの通信端末が振動したのは、すばるに介抱されて藤乃がひとしきり泣いた後だった。


「……レジーナ工廠からだ。社長室に来てくださいって」


 ペトラとすばるもポケットの端末を見るが、二人は呼び出されていないようだ。


「じゃあペトラさん。水族館楽しんでくださいね」

「はい」

「すばるも」

「ううん、一緒に行くよ。だってもう私たち家族みたいなもんだし」

「……? 何言ってるの?」


 藤乃はすばるに抱きかかえられながら立ち上がり、松葉杖をつきながら水族館を後にした。

 ペトラは相変わらず水槽を見上げている。その背中にも、やはり何かの感情を持っているようには見いだせない。まるで、ロボットが指示を待ってそこに待機しているかのようだと藤乃は思った。

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