②
ふらり、と足が向いてしまう。
もうそこに、キャサリンがいないと分かっていても。藤乃は照明の落ちた『カントリー・アイダホ』の入り口をくぐった。
店内はホコリまみれである。入口から差し込む冷たい光だけの空間に、冷蔵庫が動く重低音だけが寂しく響く。
藤乃はこれまでキャサリンに絶対に入るなと釘を刺されていた、カウンターの中へとこっそり入った。案外、ひょっこり現れたキャサリンが藤乃をどやすのでは――――そんな藤乃の一縷の望みは、当然のごとく打ち砕かれる。
カウンターの内側に藤乃がしゃがむと、藤乃が好んで飲んでいた瓶ビールが並べられていた。艦内で少数生産されている、パイロット用のノンアルコールビール。二本組にされて並べられたそれは、おそらくキャサリンが藤乃と飲むために用意したものだ。
ビールを動かすと、その奥には写真が貼られていた。
「この写真……」
いつ撮ったのか、それは藤乃の写真だった。
カウンターに突っ伏し、呆けた顔で眠っている。『アイダホ』のカウンターで、藤乃が寝落ちしたときの写真だ。
周りを見回してみれば、カウンター下にはあちこちに写真が貼り付けられている。『アイダホ』の中で撮ったと思しき、航空隊やクルーの写真たちだ。
その大半には藤乃かイングリットが映っている。いつも客入りのなかった『アイダホ』に入り浸っていたのは、藤乃くらいのものである。
イングリットは付き合いなのか、それとも昔は来ていたのか、少し古い写真が多い。去年のものと思しき、ペトラとスサンナだけが一緒に写り込んでいるものもある。
この写真がもう増えることはないのだろう――――そう思うと、藤乃にはこみあげてくるものがあった。カウンターの下を覗こうとしゃがんでいた藤乃は、その場にゆっくりと横たわる。
この写真は、キャサリンの秘密だったのだろうか。
藤乃に見せられないような写真だとは思えない。真意を聞こうにも、もう――――
「少尉、こんなところで何をしているんだ」
上から声を掛けられ、藤乃は閉じかけていた瞼を見開いた。
「か、艦長!」
藤乃はスッと素早く立ち上がり、カウンターの中を覗き込んでいたグロリア・リグーリアに敬礼をした。つなぎの軍服は半分がホコリまみれになっていて、立ち上がった勢いで少しの量のホコリが飛び散った。
「休め。別に少尉を咎めたかったわけじゃない」
藤乃が敬礼を解くと、グロリアはカウンターに座り直した。
肘をついたグロリア、その横には背の高いボトルが置かれている。薄暗い店内では文字が判別できないが、シルエットからワインであろうと藤乃は予測できた。
「グラスはないかな」
藤乃はカウンターの下を見回し、「キッチンのほう見てきます」といってカウンターを出た。
ほどなくワイングラスを手に戻ってきた藤乃は、カウンターの流しでそれを軽く洗い、水気を切ってグロリアに差し出した。
「少尉も飲むか。十九年ものだ」
「申し訳ありません。今シェルヴールで飛べるのは私だけなので。いただけません」
「ふっ、それでこそリトル・コマンダーだ」
グロリアはワインボトルからとくとくと赤紫色の液体をグラスに注いだ。
「……クルー全員分のな、生まれ年のワインを持っているんだ。記念日には一緒に飲もうと思って」
「この前も、副隊長……いえ、隊長のバースデープレゼントにしてらっしゃいましたね」
「ああ。そしてこれはキャサリンのだ」
グラスの足を摘まんでスワリング、匂いを味わってから、グロリアはゆっくりとグラスを傾けた。
「……熟成が足りない。あと五年は寝かせておきたかったのに」
そういいながら、グロリアは再度ワインをグラスに注いだ。
キャサリンはもういない。グロリアは、彼女と空ける予定だったワインを、今日飲み干してしまうつもりらしい。
熟成が足りない――――その言葉に込められた意味を、藤乃も察する。
早すぎる死。五年後、グロリアがキャサリンと飲むはずだったワインは、熟成を待たずに消費されていく。
「私を恨むか、少尉」
「なぜです」
「『中将』なんて立場のくせに、部下一人守れないんだぞ私は」
グロリアはワイングラスを煽って空にすると、自分の横に静かに置いた。
「くそっ、せめて死ぬなら少将にでもなってからにしろっていうんだ……! そしたら二階級特進で、私の上官になってくれたのに! みんなの前で、素直に泣いてやれるのに……っ!」
「艦長……」
「私は無力だ。反攻作戦の最高指揮官で、スパルヴィエロの艦長なんて立場でいても、結局私は安全な艦橋から、お前たちが死地へ赴くのを見送っているだけだ。偉そうにしていても、結局勝利をもたらしてくれるのは、お前たち前線の兵士だというのに! 私はお前たちに、何もしてやれないんだ……!」
ワインボトルを握りしめるグロリアの手の甲に、血管が浮き出た。
力を込められたボトルは、微かに左右に揺れている。
「……私を罵ってくれ、碓氷少尉」
グロリアは空のグラスにワインをまた注ぐ。
「安全な場所で、お前たちに死を命じる私を、クソ野郎だ、腰抜けだと責めてくれ」
「そんなこと……できません」
「上官命令でもか」
「できません」藤乃はきっぱりと答えた。「艦長は、腰抜けなんかじゃないです。本当の腰抜けなら、きっと今頃開き直ってます。部下が死んだのは自分の責任じゃないって」
「そうだろうか」
「艦長はクソ野郎なんかじゃありません。だって、こうして隊長のことを悼んでくれているんですから。もし私が死んだら、今みたいに艦長には目一杯泣いて欲しいです」
「バカなことを言うな。少尉の年のワインは、あと十年は絶対に開けないぞ。当たり年のワインなんだからな、少尉にも絶対飲んでもらう」
「楽しみにしておきます」
藤乃は顔が綻ぶのを自分で感じた。
心から笑うのは久しぶりかもしれない。ハリケーンの吹きすさぶ、あの甲板で冷えた体と心に、体温が戻ってくるように感じた。
「あ、艦長。こちらに」
『アイダホ』の入り口から、暗がりを探るように一人の女性クルーが入ってきた。
眼鏡に金髪、襟元の階級章は藤乃と同じく少尉を示すもの。藤乃は面識がなかったが、その女性の声を聞いてすぐに分かった。オペレーターのフランソワである。
フランソワは藤乃の姿を見て一瞬固まったが、グロリアに近づいてひそひそと耳打ちをする。
話を聞いていたグロリアの眉が、ピクリと震えた。
「……レジーナ少尉が脱走した。東へ飛んで行ったらしい」
うわ、言っちゃったとでも言いたげな顔をするフランソワ。その情報はきっと、藤乃が聞いてはいけない内容に違いなかった。
藤乃はカウンターを飛び出し、カタパルトへ向かう。途中、松葉杖のスサンナとすれ違うと、スサンナは持っていた巨大なリュックを藤乃へ押し付けた。
「……行くんだろ。メキシコ湾のほうは私らに任せておけ。お前はあのバカを連れ戻してこい」
「はい、ありがとうございますっ」
リュックを抱えたまま、カタパルトへ出た藤乃はF-4EJ改で空へと飛びたった。
雨が止んでいる。ハリケーンの大嵐は押し退けられ、艦の周りに壁を作っている。
これは台風の目かと藤乃は思ったが、雲の上まで一気に高度を上げるとその理由はすぐに分かった。
ペトラの『タイフーン』が、セイバーモードの風を操る能力を使った痕跡であった。




