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机上訓練室を出た藤乃がキャサリンと分かれ航空隊員の控室に向かうと、慌てた様子のペトラとばったり出会った。
「あ、藤乃ちゃん!」
「ペトラさん、今日は待機中では?」
「うん。ミリアム先生に頼まれてさ。イングリットさん探してるの」
「副隊長を?」
藤乃は軍服のポケットから個人用の情報端末を取り出しシフト表をチェックする。
今日のイングリットのシフトには「休暇」と書かれている。丸一日オフの日のはずである。
「今日休みじゃないですか。部屋じゃないんですか?」
「部屋にいたらこんな探し回ってないよ。ともかく来て」
ペトラに腕を掴まれ、藤乃はペトラとイングリットの航空隊員私室へと向かった。
何があったのかは分からないが、何かあったのは明白であった。
配管やケーブルがほぼむき出しになって世辞にも整っているとは言い難い隊員私室であるが、部屋の中はそれにも増してかなり酷く荒らされていた。
イングリットとペトラが貼ったらしい紫陽花柄の壁紙が引き裂かれ、家具は引き出しが出しっぱなしになり、壁の本棚からは本が乱暴に引き出されて床に散らばっている。だがその惨状は私室の左半分、すなわちイングリットのベッドとデスクの周りだけで、反対側のペトラのベッドやデスクの周りは至って平和そのものである。
「これは……」
「……たぶん、イングリットさんがやったんだと思う」
藤乃はペトラの言葉を聞いて、耳を疑った。
あの大人びていていつもニコニコ笑っているイングリットが、突如獣にでもなって暴れたとでもいうのだろうか。
だが、荒らされているのがイングリットのデスク周りだけという事実が外部犯による窃盗の可能性を潰している。泥棒なら、ペトラの側も荒らすのが必然だ。
藤乃は足の踏み場もなくなった部屋へ入り、イングリットのデスクに近づいた。
先日の誕生日会で渡したフォトフレームもそこにある。しかし、何か硬いものをぶつけたのか、画面の一部が割れていた。
デスクの上や周囲には紙片が散らばっている。文字のようなものが書かれていたり線が入っていたり。ひと目で復元不可能と分かるほどだが、藤乃には何となく元が何だったのか想像はついた。
てかてかした紙質に淡い色使い。イングリット秘蔵の「うすいほん」だ。
「イングリットさんが、これを?」
「うん……ミリアム先生は『アタシのせいだ』とか言ってたけど」
イングリットはミリアムから何かを聞いて、自分の部屋を荒らしたのだろうか。藤乃はうーんと唸りながら思考を巡らせた。
ミリアムから聞いた何らかの話は、イングリットの理性を破壊するほどのことだったのだろうか。いや、「理性が破壊された」というのは表現としては正しくないだろう。理性を失ったのなら、部屋のペトラ側もイングリットは荒らして暴れたはずだ。
ではどうして? 藤乃は首を傾げる。だが、ここに答えはなさそうである。
「藤乃ちゃんも手伝って」
「はい。でもその前にミリアム先生のところに行ってみます。イングリットさんがミリアム先生に何を聞いたのか、気になるので」
「わかった。じゃあ後でね」
ペトラを見送り、藤乃は反対方向、ミリアムのいる医療室へ向かった。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
藤乃が医療室に入ると、ミリアムは奥の部屋で何かをキャサリンと話していた。防音されている医療主任のオフィス内の様子は目視で窺うしかないが、何か深刻な話をしているらしいことは藤乃にも二人の表情ですぐに分かった。
部屋の中でミリアムの視線が藤乃に向く。藤乃に気づいたミリアムはオフィスの引き戸を半開きにして上半身だけ出して藤乃に話しかけてきた。
「……どうだい。イングリットのやつ、見つかったかい?」
「いいえ、まだです。ペトラさんが探してます。先生、イングリットさんがいなくなった原因に心当たりはありませんか?」
藤乃が聞くと、ミリアムはあからさまに視線を反らした。藤乃が聞いてはいけないことをイングリットは聞いて、あんなに暴れたのだと藤乃は察する。
「入れ、藤乃」
中からキャサリンが振り返ることもなく命じる。
「ちょっと待ちなよキャサリン。まさかあの子にこのことを?」
「いずれみんなに話さなきゃならないことだ。それに藤乃は口も堅いほうだし」
「やれやれ」
オフィスのドアを開いたミリアムに招かれ、藤乃も中に入る。
部屋の中央にはソファとテーブルが向かい合うように並べられている。医者が患者に病状を告知するための部屋なので、プライバシー保護のために防音になっているのだと藤乃は少し前に聞いたばかりだ。
「何から話すか……そうだ、この前の戦闘で変異型のセプテントリオンを回収しただろ」
「あの、サムライ型のやつですか」
「そう。そこからセプテントリオンの本体である有機繊維をサンプリングして分析してみたんだよ」
ミリアムが手元の端末を操作すると、立体映像で糸状のものが拡大表示された。無数の節を持つ奇妙な形をした糸である。うねうねと動くそれはまさしくセプテントリオンの正体である有機繊維状生命体であった。
「そしてこれだ」
ミリアムが再度端末を操作すると、セプテントリオンの横にもう一つ、有機繊維が表示された。だがこっちは蠢いていない。形状こそ瓜二つだが、ぴたりと止まったまま動かなかった。
「先生、これは?」
「お前さんたちの脊髄神経細胞、そのフラクタル・スキャンデータだよ」
イングリットはセイバーモードを使う前にも精密検査を受けていたので、使用前後での体組織変化について精密に調べることができた、とミリアムは語っていたが、そんな話は藤乃の頭には少しも入ってはこなかった。
自分たち航空隊員の体の中に、セプテントリオンがいる。
その事実は、藤乃の意識を地球の引力圏外まで吹き飛ばしてしまうのに十分なほどの衝撃を与えた。
「驚いたことに、このセプテントリオン化した神経は人間の中枢神経の機能を一部代替している。それに捕食性も確認できていない」
「……シェルヴールと同じだな」
「ああ、そうさ。だがもっと高度だ。シェルヴールの疑似有機繊維は情報の伝達と運動をするのが限度で、中枢神経の代替なんかできないんだ。だってシェルヴールの活動電位に人間の末梢神経系は耐えられないんだから」
「……耐えられるように、シェルヴールによって私たちが作り変えられている?」
「考えたくないけど、そう考えるのが妥当だろうね」
セイバーモードはシェルヴールをセプテントリオンに近い存在へと変化させる。そしてそれを制御するのは脳波――――つまり、中枢神経系だ。人間の体は、セイバーモードに適応してよりダイレクトに情報を伝えられるように、中枢神経を変異させたのである。
「先生」発言したのはキャサリンだ。「害はないのか。身体機能に障害が出たり、ある日突然体を食い破ってセプテントリオンが生えてきたり」
「前者についてはこのミリアム・メルトナーが保障しよう。今のところこの有機繊維は中枢神経を代替しているだけでそれ以外の活動はしていない。ただ……」
「ただ?」
言い淀むミリアムをキャサリンが追及する。
「……実はイングリットに言われてテストしてみたんだよ。セイバーモードの後遺症について」
「でも先生、後遺症はないって……!」
「ああ。目に見える範囲に後遺症はない。手足が不自由になったり、五感が無くなったりはしない。だから機械の検査じゃ見つからなかったんだ。なくなるのは『心』だよ」
「こころ?」
「情動、あるいは感情といってもいいかな。セイバーモードを使う度にこの疑似繊維はより深くお前たちの脳を蝕み、その組織を置き換えていく。だが奴らが伝えるのは電気信号だけだ。脳の代替は不完全で、機械的機能以外は失われる」
「じゃ、じゃあ、セイバーモードをこのまま使い続けたら……」
藤乃はうろたえた。
とどめでも差すように、ミリアムは言い放つ。
「お前さんたちはただ生きているだけの、機械とそう変わらない存在になる」




