②
「碓氷さん、でよかったかしら」
困惑してその場にホバリングしていた藤乃に、ATD-Xを纏った女性が話しかけてきた。
通信ではない。直接声が届く距離だ。短い髪がヘッドギアからちらりと覗く川崎中尉は、その凛々しい声に違わない、若い女性隊員であった。
「戦技教導航空隊所属、川崎みつば中尉です。今日はいいものを見せてもらったわ」
「あの、セプテントリオンが出たって」
「ええ、聞いているわ。租界までこのまま帰れる?」
藤乃は残りの燃料を確認し、大丈夫です、と答えた。
「そう。じゃあ私が上、あなたは下を飛んで。租界まで護衛します」
はい、と答えるまでもなく、藤乃は体が動いた。大きく見えているドームに向かって進路をとり、エンジンを噴かす。
既にまだ未完成のドームの開口部では戦闘が始まっていた。黒い粒のように見えるセプテントリオンに向かって、並べられた機銃が火を噴いて弾幕を張っている。
「弾幕に入らないように、このまま低空から侵入しましょう。もうすぐ援軍が来て――――きゃあっ!」
川崎中尉の悲鳴に、藤乃が振り向く。
藤乃の上を飛んでいた川崎中尉の足に、テディベアが組み付いていた。
慌てて組み付いたテディベアを振りほどこうとする川崎中尉だったが、赤茶色の熊のぬいぐるみはがっちりとその腕で足首を掴み、徐々に彼女の体をよじ登っていく。
空を飛ぶテディベア。
見た目こそファンシーなこれこそ、全生命の天敵、セプテントリオンである。
「こいつっ!」
川崎中尉は所持していた護身用の拳銃を向けるも、恐怖で手が震えて狙いが定められていない。そして。
パァン。
中尉は引金を引き、セプテントリオンを退けた。だが、流れ弾は彼女の膝に命中した。
「ああああっ!」
痛みに悶える中尉を助けようと近づいた藤乃だったが、セプテントリオンのほうが少し早かった。
傷口にセプテントリオンが取り付き、傷口から彼女の足を貪り始めたのだ。
「に、逃げなさいっ!」
「でも……」
「いいから早くっ!」
次の瞬間、中尉の顔右半分にセプテントリオンが喰らいついた。
シェルヴールの擬似生命有機繊維はセプテントリオンの捕食を防ぐ。彼らは、それで守られていない生身の肌が露出した部分を狙っているのだ。
「あ、あ、ああ……」
次々とセプテントリオンが中尉に取り付いていき、変形が解除されて軍服の形態になったシェルヴールは無残にも切り刻まれ、中尉だったものは一分もかからずにテディベアの塊になってしまった。
藤乃はその場にすくんだまま、何もできずにいた。
いつか、青い空を怖いと思う日がくる。藤孝の言っていたのはこういうことなのだろうかと藤乃は思った。だが不思議と恐怖は感じない。恐怖を通り越して、絶望が藤乃を支配しているらしかった。
テディベアの塊がほどけていく。中尉は跡形もなくなり、変形の解けたシェルヴールだけがゆらゆらと落ちて行った。
「……!」
テディベアたちが、一斉に藤乃に視線を向ける。
視線、といっても目があるわけではない。ボタンのような、取って付けたような「目」に当たる部分が光を反射しているだけだ。だが藤乃は直感的に、セプテントリオンが自分を狙っていると悟った。
「こんなところで死ぬのは……絶対イヤだ!」
エンジンを全開まで噴かした藤乃は、その場から一目散に逃げた。振り返れば、セプテントリオンたちが飛行機雲のように一列になって追いかけてきている。
危ないことなんて何にもないんだから。藤乃は確かにそう思っていた。
研究チームのテストパイロットなら、飛ぶのは空ではなくてドームの中だ。セプテントリオンもいない、墜落くらいしか命の危険なんて何もない空。藤乃は青空に憧れているといいながら、その実危険のない安全な場所に甘んじていたのだ。
鳥かごの中から見る青空は遠く澄んでいる。だがそこにある自由は死とも隣り合わせなのだ。飼われた鳥は、籠の中から青空に憧れているだけのほうがずっと幸せなのかもしれない。
『――――ou hear m――』(――――え、ますか――――)
「え?」
藤乃は通信機に飛び込んできた声に驚いた。
どこからか、誰かが藤乃に英語で呼びかけている。通信波に感応するセプテントリオンが埋め尽くしたこの空で、果敢にも広域通信波を出して藤乃に呼びかけているのだ。
『Can you hear me? こちらスパルヴィエロ特務航空小隊です』
今度は、ハッキリと藤乃にも聞き取れる通信強度での通信だ。声の主がどんどんと近づいている。しかも無線の全帯域を使った通信だ。
藤乃を追いかけていたセプテントリオンたちも、通信に感応して進路を変える。藤乃がその進路の先を見ると、小さく、三つの機影がこちらに近づいていた。
どっ。
突然、セプテントリオンの群れの、先頭の個体が爆裂する。
連鎖爆発でも起こすように、そのまま一直線に並んだセプテントリオンたちは一瞬にして焼き尽くされ、後には火のついた糸くずのような繊維だけが空に散らばった。
「大丈夫、ですか」
目の前の出来事に面食らってその場に留まってしまっていた藤乃の前に、シェルヴールを纏った一人の少女が現れた。
金髪に蒼眼、喋る英語にはどことなく訛りがある。風にたなびく長い前髪やもみあげが輝くような、欧州人の少女だ。
「うわあ、ちっちゃい子!」
藤乃は英語が堪能というわけではないが、その金髪少女の言葉には少し腹が立った。藤乃を侮蔑するような悪意は感じられないが、失礼は失礼である。
「歳は? いくつ?」
「十四です」
「うわあ、同い年なんだぁ!」
金髪の少女が、藤乃にぎゅっと抱き付く。
きゃっきゃとはしゃぐ少女とは対照的に、彼女と一緒に現れた同じくシェルヴールを纏う二人の航空隊員たちは藤乃たちの周りを飛び回りながら、セプテントリオンを次々と撃墜していった。
お互いがお互いの背後を守りながら撃墜していく息のあった戦闘機動には、藤乃も舌を巻いてしまった。
「ペトラ、ふざけてないでその子をコロニーまで連れて行ってやれ」
「りょーかいです、隊長」
通信で苦言を呈された少女――無線通信ではペトラと呼ばれていた――は、藤乃の手を握るとその手を引いて背中のエンジンを噴かし始めた。
「いこっ」
ぎゅん。
急な加速をかけて、藤乃は少女に引っ張られるように戦闘空域を離脱する。