②
夜も更け、藤乃はレジーナ邸の別荘に泊まることになった。夕飯が終わって早々に、業務があるからと辞去したランベルトとイングリットについていこうとした藤乃だったが、その腕をペトラに掴まれてしまった。
藤乃に「泊まっていってよー」と駄々をこねる子供のように求めたペトラ、その姿を見るアルバートの目は鋭かったが、藤乃は言っても聞きそうにないペトラのお願いを聞いてあげることにした。
レジーナ邸にはいくつもの客室があり、その一つに藤乃は通された。それほど広くはない、航空隊員用の二人用私室より一回り広いくらいの部屋だったが、一人でいると見た目以上に広さを感じる。藤乃は清掃の行き届いたベッドに倒れこみ、電気もつけずに天井を見上げていた。
今日一日だけで色々なことがあった。もはや租界という規模ではない、アンカレッジの要塞都市。今まで藤乃がずっと、スパルヴィエロの中にしかない「特別」だと思っていた文化的な暮らし。ペトラの置かれた状況。そして、セイバーモード――――人類がセプテントリオンに反抗するための切り札。
二十四時間前とは何もかもが変わってしまったように感じる。まるで夢の中の国を散歩してきたみたい……微睡み始めた藤乃は、ドアをノックする音で現実に引き戻された。
「入っていい?」
ペトラであった。
いくら航空隊員の仲間とはいえ、(名目上は)男子の部屋にペトラがやってくるのはまずい。藤乃は素早く扉に近づき、ペトラを室内に引き入れて錠をおろす。
「ペトラさん、夜中にこんなところ来たらまずいんじゃないですか?」
「そうだね。でも大丈夫。誰にも見られてないから」
ここはレジーナ家の別荘である。屋敷の構造を知り尽くしたペトラにとっては庭みたいなものだ。
「ちょっと話したくてさ。いいでしょ」
「いいですけど」
藤乃は廊下に聞き耳を立てた。
航空隊員として訓練している藤乃は聴覚にも覚えがある。足音を聞き取り、誰か――――大人が二人ほど、足早に近づいていることを悟った。レジーナ家の使用人が、私室を抜け出したペトラを探しているのだ。
「ベッドに隠れてください」
「えっ、いいの?」藤乃がさっきまで寝転がっていたベッドにペトラがもぐりこむ。「あー、藤乃ちゃんの匂いがするー」
「中じゃなくて、後ろにです!」
ペトラをベッドの陰に隠し、藤乃が部屋の錠を戻す。その瞬間に、部屋をノックする音が響いた。
「お休みのところ申し訳ありません、碓氷さま」
一呼吸置いて、藤乃はゆっくりと扉を開けた。
メイド服――――マンガで見るようなものではなく、伝統的な使用人用の衣装に身を包んだ女性二人が、客室の前に立っていた。
「どうしました?」
「実はお嬢様が、ペトラお嬢様がお部屋にいらっしゃらないのです」
「そうですか……僕も探すのをお手伝いします」
「いえいえ。お客様のお手を煩わせるわけにはまいりません。碓氷さまはお休みになっていてください」
「そうですか? ではもしペトラさんがここに来たら、みんなが探していたと伝えておきますね」
「はい、よろしくお願いします」
扉を閉め、使用人たちの足音が去っていくのを聞き、藤乃はベッドの陰に戻った。
ベッドの横に、身を屈めて体育座りするペトラ。藤乃はその隣に腰を下ろした。
「あの人たち探してましたよ」
「もう! わたしだってもう子供じゃないんだから、どこに行ったっていいじゃん! 藤乃ちゃんもそう思うでしょ?」
「そうですね」
ペトラの発言に頷いてはみたものの、アルバートの考えも藤乃には分かる気がした。
自分で勝手にスパルヴィエロの航空隊員として飛ぶことを決めてしまったペトラが、久方ぶりに戻ってきたのである。その身を案じないはずがない。
「……藤乃ちゃん。わたしたち、どうなっちゃうのかな」
「どう、とは?」
「見たでしょ、『セイバーモード』」
あの時のペトラの姿はまるで天から舞い降りた女神のようだった、と藤乃は喉まで出かかったが、その言葉は飲み込んでおいた。ペトラの表情は暗く、立てた両膝はきゅっとすぼまれている。称賛を求めての発言ではないのは明らかだ。
「あの後、いっぱい検査した。それでどの検査でも全く異常はないって。なんだけど……なんだけど、なんかおかしい気がするんだ」
「おかしい?」
「うん。何か、ぽっかり穴がどっかに開いちゃったみたいな……コップに開いた小さな穴から『わたし』が流れていっちゃってるみたいな……。そんな感じ」
ペトラの発言は抽象的で、藤乃には何の話かさっぱり分からない。
だが、ペトラがセイバーモードの使用に、何らかの不安を感じているのは確かだ。
「藤乃ちゃん、わたし怖いよ……何かがわたしの中で変わっちゃってるのに、たぶん自分でもそれに気づけてないんだ」
足の間に頭を挟み、顔を隠してしまったペトラ。藤乃はその横に腰を下ろしたまま、ただ見ていることしかできなかった。
藤乃は決心したはずだった。ペトラにとっての『白馬の王子様』を演じきってみせることを。
だが現実はどうか。
ペトラがセイバーモードを解除したとき、いち早くそこに駆け寄り、よろけた彼女を抱きとめたのはランベルトだった。
その時藤乃はただペトラに見とれていただけだった。セイバーモードをただ見ているだけの、部外者になっていたのだ。
今この場でも藤乃は部外者になっている。正体不明の不安に押しつぶされそうになっているペトラに対して、藤乃はどうすることもできず隣に座っているだけだ。
「ペトラさん……ペトラさん、私は『王子様』失格です」
「えっ?」
「落ち込んでるペトラさんに『心配ないよ』とか『僕がついてる』とか、言えればよかったんですけど。でも、そういうことって口で言うだけじゃダメなんですよね。ちゃんと行動で示せないと、どんな言葉も軽くなっちゃいます」
「藤乃ちゃん……」
「ペトラさんは凄いです。私と同い年なのに、もう将来の夢とかやりたいこととか見つけて、そのために行動できて。私なんて目の前のことで一杯いっぱいで、自分が将来どうしたいとか、どうなりたいとか、考えても全然わかりません。王子様の役だって、イングリットさんや周りのみんなに『やって』って言われたからやってるだけで、結局自分では何にも決められません」
「藤乃ちゃんは……わたしが『すごい』って思う?」
「思います。何年もシェルヴールで飛んでて、家柄も良くてみんなから慕われてて、叶えたい夢も持ってて、婚約者までいて」
「そんなの、わたしの運が良かっただけだよ。たまたまレジーナの家に生まれて、たまたまシェルヴールを使えて、たまたまやりたい事にも出会えて。ただそれだけ」
ペトラの口ぶりは謙遜のそれではない。
「わたしも一緒だよ、藤乃ちゃん。わたしもレジーナ家の娘として、そうしろって言われてやってるんだ。セイバーモードのことだって……。本当は怖いよ。どうなるか分かんないし。でも、わたしがレジーナ工廠の娘だから、わたしが最初に使って見せなきゃいけなかった。自分で選んだように思ってても、実際にはそう選ばざるを得なくなってる。わたしはわたしがキライ。『やりたいこと』よりも『やるべきこと』を優先せざるをえない、レジーナ家の娘でしかない、わたしが」
ペトラは足を崩し藤乃に迫った。手を包むように握られた藤乃は、ペトラの体温をその手に熱く感じる。
「藤乃ちゃんは『王子様』失格なんかじゃないよ。だって、藤乃ちゃんは最初っから、わたしにとっては『王子様』なんだから」
「え?」
「石巻で藤乃ちゃんに出会ったとき、運命だって思ったんだ。シェルヴールを使っているのに、わたしを知らない人。わたしがレジーナ家の娘じゃなくて、ただの『ペトラ』としてお友達になれる人。わたしをわたしでいさせてくれる人。だからわたしには、藤乃ちゃんしかいないんだ」
ペトラが藤乃に執着していたのは、藤乃がペトラをレジーナ工廠の娘として、いくつものシェルヴールを駆ってきたテストパイロットとしてではなく、歳の同じ友人として、航空隊員の仲間の一人として接してきたからであった。
「……なんか、ふさぎ込んでこの部屋に来たのはペトラさんだったのに。逆に私が元気もらっちゃってますね」
「たしかに!」
ペトラは先ほどまでふさぎ込んでいたのがウソだったかのように明るい笑顔になった。
藤乃がいつも見ている、アンカレッジ租界に上陸してからなかなか見せることがなかった、あのペトラのぱぁっと明るい笑顔だ。
「藤乃ちゃんといると、わたしがわたしでいられるんだ。だから藤乃ちゃん、ずっとわたしの手を離さないで。スパルヴィエロから降ろさないで」
「……私も、ペトラさんと話すとなんだかこっちまで元気になれるみたいです。もう一度私、ペトラさんの『王子様』をやってみます。ペトラさんがペトラさんでいられる場所に、ずっといられるように」
「うん、ありがと。藤乃ちゃん」
ペトラが身を乗り出す。押されるように藤乃は体を傾けたが、それにも構わずペトラの顔はどんどんと近づいてきた。
藤乃は顔を反らしてペトラを避ける。横を向いた藤乃の頬に、ペトラの唇が優しく触れた。
「い、いきなり何するんですか!」
「あはは、びっくりしたー?」
「びっくりしますよそりゃ! いきなりあんなこと……!」
「え? じゃあいきなりじゃなかったらいいの? 手順と段階を踏んだら、藤乃ちゃんにキスしてもいい?」
「いや、そういう問題じゃなくてですね……」
「照れた顔もかわいいね、藤乃ちゃん」
「か、かわいい⁉ そうでしょうか……」
「うん。今日はずーっと藤乃ちゃんのこと、見てたいなー」
「だめです。そろそろ部屋に戻らないと、本当に怒られますよ」
「えー、藤乃クンひどい。それじゃあ明日、わたしホントのこというから。『一晩中藤乃クンの部屋にいたの』って」
それはまずい。藤乃のこめかみを冷や汗が流れる。
藤乃が泊っていくと聞いたときに、一瞬見せたアルバートの表情。いくら孫娘が大好きな好々爺であっても、否、孫娘が大好きな好々爺だからこそ、ペトラがそんな話をすればアルバートが藤乃を絶対に許さないであろうことは明白だ。ここはペトラのワガママに付き合うしか、藤乃には選択肢がない。
「……しょうがないですね。明日の朝までですよ」
「やったー! 今日は初めてのお泊り会だね、藤乃ちゃん」
「今日一晩付き合ったら、何か適当な言い訳つけてくれますよね?」
「もちろん。部屋を抜け出した言い訳ならもう考えてあるしー」
肩をくっつけ、藤乃に頭を預けるペトラ。藤乃はペトラのしたいままにさせてあげることにした。
ペトラがそれを求めているから、『王子様』としてそれが「やるべきこと」だというだけではない。ペトラのために、彼女の求める人生を叶える手助けがしたい。それは藤乃が今「やりたいこと」に違いなかった。




