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 アンカレッジ租界はクック湾に面して点在する、大小さまざまなドームで構成された大規模コロニーである。

 湾の入り口には表面に無数の旋回機銃砲塔を備えたドームがあり、さながら租界一つが要塞のようである。スパルヴィエロは湾内を進み大きなドームの中に隠されたドッグへと入港した。レジーナ工廠アンカレッジ支社のある居住区へはそこから揚陸艇で向かうことになる。


「ちょっと寒いかも」

「これどうぞ」


 ペトラの着るイブニングドレスは肩が出ていて、アンカレッジの風は冷たそうである。藤乃は着ていたフロックコートを脱いでペトラの肩に被せた。ワイシャツにウェストコート、スラックスを履いた姿は男性用礼服のそれである。背の低い藤乃に合わせて丈も調整されており、血のにじむような特訓のせいか、藤乃の立ち振る舞いは少年のそれになっていた。ぼさぼさに伸ばして一つ結びにしていた髪は、ショートカットの自然体にまとめられている。

知らない人から見れば、藤乃が女であることを疑うものはいないだろう。


「わぁ、ありがと。藤乃クン」

「なんかそう呼ばれるの、くすぐったいですね」


 藤乃の身近にいた男性といえば、養父藤孝ぐらいのものである。それも歳はかなり離れていたので、同年代の女子が男子をどう呼ぶのか、そこにどんな意味を持たせるのかを藤乃は知る由もない。


「どうかしら、藤乃くん」


悪ノリしているのか、同行しているイングリットまで「君」づけで藤乃を呼ぶ。


「やっぱりこれからもずっとこのままで、男装の麗人飛行士になるっていうのはどう?」

「何度も言わせないでください。お断りします」

「いいじゃない。いままでうちの航空隊にはいなかった属性だわ」

「属性⁉」

「ええそう! 愛する人のため、仕方なくやってみた異性の格好。それを繰り返すうちに自分自身がハマってしまって、次第に身も心も染まっていく……ああ、なんて耽美なのかしら!」


 イングリットは空を見上げ、熱く語りながら恍惚の表情になった。

 腐女子であるイングリットはたびたびこうして妄想の世界に旅立ってしまうのだ。こうなってしまうと、もはや誰にも彼女を制御することはできない。


「そういえば大尉、この前『私は私で話したいことがある』とか言ってませんでしたっけ。一体何の話なんです?」

「そう、その話ね。今回スパルヴィエロがアンカレッジに寄港したのはアップデートを施すためなの。それに伴って、私たちのシェルヴールも改修が加えられる」

「『セイバーモード』だよ、藤乃クン」

「『セイバーモード』?」


 聞きなれない単語に、藤乃は頭の上に「?」を浮かべた。


「ええ、そう。今までシェルヴールの有機繊維はセプテントリオンの浸食から私たちを守るために使われていた。それを攻撃に転用する決戦機能よ」


 イングリットは電子端末を藤乃に差し出した。

 藤乃が目を通してみると、表示されていたのは何らかの論文であった。学のない藤乃には内容の三割程度しか理解できないが、一文、強調された文字列が目に入る。


「『理論上はセプテントリオンとほぼ同質の力』……すごいじゃないですか」

「ええ。今までのようにエンジンで推力を、翼で揚力を得なくても反重力で自由に飛べる上に、セプテントリオンを捕食してエネルギー源にすることで、活動時間を実質無限にできる」


 すなわちウナラスカ島攻略戦のときの藤乃のように、燃料切れを起こすことがなくなるということである。

 夢のような能力だと思った藤乃だったが、満面の笑みを浮かべるペトラとは対照的に、イングリットの顔は渋く、暗いものであった。


「ここを見て」


 イングリットが指さしたのは実験の様子を写した写真であった。疑似有機繊維を体に縫い付けたラットの写真の横には、有機繊維を活性化して変化した、筋骨隆々、全身青タイツと赤いパンツに手袋、ブーツとマントという「いかにも」な格好をした二足歩行のラットを撮影した写真が載せられている。顔だけがネズミらしい尖った顔なのがコミカルで、藤乃も噴き出してしまった。


「笑っている場合じゃないわよ藤乃ちゃん。こんな変化が私たちにも起こるの」

「え、こんな全身タイツのスーパーヒーローみたいになっちゃうんですか」

「ううん、デザインとか機能は使う人のイメージが反映されるんだって」

「イメージ?」

「こうありたいとか、こうなりたいとか。あとはこういうふうに使いたい、とか」

「深層意識ね」


 深層意識。藤乃はイングリットのその言葉を反芻した。

 シェルヴールを着て自分は何をしたいのか。地球の空を守りたい、セプテントリオンを撃退したい、というのは間違いないが、具体的に「なりたいもの」をイメージしろと言われても藤乃には難しかった。

 で、あれば「どういうふうに使うか」ということになる。地球のどこへでも超音速で駆けつけ、弾切れしないレーザー光線で敵を焼き、救った市民に爽やかな笑顔を向ける――――論文で見た写真のせいか、あるいはスサンナに借りた漫画のせいか。藤乃の脳内に浮かぶイメージは全身タイツの、新聞記者を世を忍ぶ仮の姿とする「あの男」にしかならなかった。

 自身が全身タイツで空を飛ぶイメージを頭を振って追い出そうとする藤乃を、ペトラとイングリットは不思議そうに見つめていた。




 アンカレッジ租界居住区の様子は、外観もさることながら、その中の空間もこれまで藤乃が見てきた租界のそれとは大きく様相が異なっていた。

 アンカレッジ租界の居住区は石巻や函館で見たそれより圧倒的に巨大である。内部の敷地面積だけでも六倍はあろうかという巨大なドームにはなんと窓がある。上から見るとまるでケーキの1/4を切り欠いたように開いた窓からは、外から太陽の光が差し込んでいるのだ。巨大なドームを支える構造体に一部遮られてはいるものの、本物の光と本物の空が見える居住区を、藤乃は羨ましいと思った。

 ドームの内部には人荷輸送用の懸垂式モノレールまで走っており、藤乃たちはそれに乗りこんで中央区画にあるレジーナ工廠アンカレッジ支社へと向かった。

 ペトラが一歩支社に踏み込むと、ずらりと並んだ十数名の正装の男女がペトラに向かって頭を下げた。ペトラが人の波を割いて進む様は、まるで聖者が奇蹟で海を割ったかのようである。


「ようこそおいでくださいました、お嬢様」


 髭を生やした老紳士がペトラに向かい合い、頭を深々と下げる。


「長旅お疲れでございましょう。少しお休みになられますか」

「いえ、結構です。早く会長にご挨拶したいので」


 フォーマルな場でのペトラはいつものゆるふわガールとはまるで別人である。


「かしこまりました。ではお連れの方もこちらへどうぞ」


 老紳士はペトラと藤乃、そしてイングリットを引き連れて支社のエレベーターへと乗り込んだ。

 支社の最上階、二十五階に会長室はあった。老紳士が分厚そうな木製のドアをノックすると、中から「入りなさい」の声が聞こえてきた。


「失礼します」


 ペトラが扉を押し開き会長室に入る。続いてイングリット、そして藤乃も中へ入った。

 会長室の中は簡素なつくりであった。床はタイル張り、執務机は楕円形のガラステーブルでその上には分厚い封筒に書類が何枚か、それと航空機の模型が飾られている。応接スペースもまた膝くらいの高さのガラステーブルと、向かい合うように配置された角ばった革椅子が並んでいる。綺麗に整えられてはいるものの、あまり高級そうではない。


「お久しぶりです、会長」


 スカートの裾をつまみ、お嬢様らしく礼をするペトラ。それに合わせてイングリットと藤乃は敬礼をした。


「待っていたよペトラ。よく来てくれたね」


 執務机に腰かけた優しい声の男性は、髪が半分ほど白髪になり、ピッシリと体型にあったスーツを前のボタンを開けて着崩した、フランクそうな笑顔の初老の男性であった。笑った目元はなんとなくペトラに似ている。この男こそ、ペトラの祖父でレジーナ工廠の会長、アルバート・ネリウス・レジーナである。


「中尉もお久しぶりですね」

「はい、お陰様で今は大尉に。航空隊の副隊長を務めさせていただいています」

「そうでしたか、すみませんでした大尉。そちらの方は?」


「碓氷藤乃です」藤乃は敬礼のまま挨拶をした。少し低めの発声も訓練の賜物である。「ペトラさんとは特務航空隊でご一緒させていただいています」

「ほう、きみが『例の』。いつもペトラがご迷惑をおかけしています」


例の⁉と思いながらも藤乃は平静を装って答える。


「いえ、そんなことは。わ……僕はペトラさんに助けてもらいっぱなしで」


立ち話もなんですから、とアルバートは藤乃たちに応接スペースの椅子を薦める。

ペトラはアルバートの隣に、イングリットと藤乃はアルバートとペトラのそれぞれ向かいに腰かける。


「今日お呼びたてしたのは他でもありません、うちのペトラをそろそろスパルヴィエロから呼び戻したいと思いましてね」


 アルバートはにこやかに話しているが、背負ったオーラは有無をいわせない強者のそれである。藤乃はライオンに睨まれたウサギのようにその場で震えあがってしまった。


「ご令孫は我々特務航空隊のかけがえのない大切な仲間です」


対するイングリットも表情こそ穏やかだがいつものキツネ目がよりつり上がって威圧感が増している。


「ペトラさんが首を縦に振らない限りは、我々もペトラさんを航空隊から外すようなことはできませんよ」


 アルバートとイングリットの会談は、両者強大なオーラをぶつけ合う、さながら妖怪大戦争である。蚊帳の外にいる藤乃はただそれに縮こまるしかない。

 だが、アルバートの隣に座るペトラは恐ろしいほどにこやか、つまりいつも通りであった。コイツ、すぐ隣で祖父と上官が自分の両手を引っ張りあってるの分かってんのかと藤乃もやり場のない怒りを覚えてしまう。


「ペトラにはいままでわが社でテストパイロットを務めてもらっていました。ですが十分にキャリアも積みましたし、そろそろ経営のことも学んでもらいたいのですよ」

「それはペトラさんが望んでいることでしょうか。どうでしょう、ペトラさん」

「グランパ、わたしはスパルヴィエロに残りたい」

「わがままを言ってはいけないよ、ペトラ。『一つの戦いに勝つより、数千の戦いを支えられる人になりたい』と言っていたのはお前じゃないか」


 あのペトラからそんな真面目な言葉が出てくるのかと藤乃は心底驚いた。普段のゆるふわガールと同じ人間の口から出た言葉だとはとても信じられない。


「そのためのポストも用意した。許婿だって」

「「許婿⁉」」


 藤乃とイングリットの声が重なった。

 見合いと聞いたはずだが、実際には許婿。つまりはほぼ結婚が決まっている。そのことに驚いたのは藤乃ばかりではない。イングリットも初耳であったようだ。


「い、許婿って、どういうことです?」

「はい。国連軍統合広報司令部、ランベルト・ホラント中佐はペトラの許婿なのです」


「誰ですか?」と小声で問うた藤乃に、「国連軍きっての若手エリートよ」とイングリットは小声で答える。


「しないもん! そんな人と結婚なんか! わたしは藤乃クンと結婚する!」

「ペトラ。これはお前の夢を叶える、二度とないチャンスなんだよ」

「そんなこと言って。グランパはわたしをコネに使いたいだけでしょ!」

「それは違う。ペトラ」


 アルバートは語気を強めた。


「……失礼。家族の問題に巻き込んでしまったようですね」何かを言いかけていたが、アルバートの口調は優しいものに戻った。「大尉、仕事の話に入りましょうか」


「いえ、ちょっと……タイムっ!」


 イングリットが両手で「T」の字を作る。

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