③
藤乃が逃げるようにしてイングリットと別れてバックヤードから戻ると、スサンナは本屋の店内で小説を物色しているところであった。スサンナもやはり本にはテンションが上がるらしく、鼻息が荒くなっている。
イングリットの一件もあって、藤乃はおそるおそるスサンナの手元を覗き込む。スサンナが読んでいたのがキリル文字の並ぶ大真面目なロシア文学らしいことを確認し、藤乃はほっと胸をなでおろした。
「スサンナさん、何読んでるんです?」
「見てくれ藤乃! これはあのチェーホフの……いや、やめておこう」
スサンナはパタンと本を閉じると、棚に戻してしまった。
「イングリットと一緒じゃなかったのか、ヒヨッコ」
「何なんですか、あれ……コワイ」
「はっはっは。あいつの趣味に付き合わされる奴はみんなそう言うんだ」
甲板を離れたとき、スサンナが「お前の趣味に新入りを巻き込むな」と言っていたのを藤乃は思い出していた。スサンナはイングリットのBL趣味を知っていたのだ。
「スサンナさんはああいうの、どう思います?」
「いいんじゃないか。誰でも、好きなものがあるのはいいことだ」
新入りを「沼」に引きずり込もうとする姿勢には感服しかねるがな、とスサンナは付け足す。
本棚を見上げるスサンナは甲板にいたときとは違って、目を輝かせた年相応の少女の姿だ。藤乃の「やっぱり黙ってれば美人ですよね」にゲンコツを飛ばしたスサンナだが、航空隊員として正規の訓練を積む藤乃の動体視力をもってすれば、三度目ともなればそれをかわすのは難しいことではなかった。
「スサンナさんはどういう本が好きなんですか?」
「私か。私は……特に好きな本というのはないな。強いていうなら、私は本そのものが好きなんだ」
スサンナはそういいながら、棚に戻したチェーホフの背表紙をなぞった。
「小説、戯曲、演劇……どれも受け手に何かを伝えるために存在し、それが残っているものだ。これを書いた人間はとうの昔に死んでしまっているが、彼の言葉には彼そのものが宿っているといってもいい……私はそれを読むと、彼と会話しているように感じるんだ」
「会話、ですか」
「ああ。私は幼いころから本が大好きでな。租界の暮らしというのはつまらないだろう、ずっと私の友達は本だけだったんだ。広い世界、知らない世界……本を読んで、租界の外の世界を夢想したものだよ。小さいころは、そんな人々に夢を与えられるような小説家になりたいとずっと思っていた」
楽しそうに昔のことを語るスサンナだったが、そこで声のトーンが低くなる。
「それが何の因果か、今は軍人だ」
スサンナは自分の軍服の腰あたりを摘まんで引っ張った。
起動していないときは機能性重視の全身を覆うツナギ型の軍服になる藤乃やキャサリンのシェルヴールと異なり、スサンナのMiG-29Kは普段からかなり姿が違っている。色は黒く縁取りが金色で豪華なブレザー型であり、軍服らしいのは上着部分だけで下はプリーツ入りのひらひらしたスカートなのも変わっている。一言でいえば「おしゃれ」だ。
起動していないときのシェルヴールの姿、軍服としての形態はそれを使用する人間がある程度カスタマイズすることができる。つまり、スサンナは自ら望んでシェルヴールをそんな姿にしているのだ。それなのに、自分の軍服を摘まむスサンナの表情は、まるでそれを着ていることに不満があるかのように藤乃の目には映った。
「おかしいだろう。空に命を懸ける私が、いつまでも昔の、子供のころの夢を覚えているなんて」
スサンナが本から手を離す。
「今は空がそこにあればそれでいい。私の生きる場所も死ぬ場所も、みんな空の上にあるんだ」
冷たい口調でそう言い放ったスサンナは藤乃に背を向け、出口に向かって歩き出す。その背中は毅然とした軍人然とした口調とは裏腹に、悲しみを背負っているように藤乃には見えた。
今は空がそこにあれば――――それは藤乃も同じだ。シェルヴールで飛び、空の平和を守ることが藤乃にとっては生きる目的であり、藤乃は自分でその道を選んだのだ。だが、すべての航空隊員が同じように空に命を懸ける選択を自らしたとは限らない。スサンナにどんな事情があったのかを藤乃は何も知らず、もしかするとスサンナは、シェルヴールに袖を通したことを後悔しているのではないかと推測することしかできなかった。




