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 最初ペトラにスパルヴィエロの艦内を案内されたときは、藤乃は本屋の存在を知らなかった。正確には、藤乃はペトラに案内されたときに本屋の前を通りすがったが、それが本屋ということに気が付かなかった。植物個体数の減少が著しい現代において紙の本は歴史資料として残されるくらいで、本といえば端末にダウンロードする電子書籍が主流である。それゆえに、一歩書店に入った藤乃はわぁと驚嘆の声を上げるしかなかった。

 狭い店内には3メートルほどの天井まで届く本棚が何列も並んでいる。背の低い藤乃が背伸びをしても届かなそうな本棚の最上部まで、紙の本がびっしりと敷き詰められて収まっていたのだ。ツヤのある表紙カバーに覆われた文庫本から、金の刺繍の入った表紙が与えられた重厚な百科事典まで。藤乃が見た事もないような本ばかりだ。それらが醸し出す紙とインクの微かな匂いは棚全体で合わさり、荘厳で優雅な雰囲気を書店内に作り出していた。


「こっちよ」


 イングリットに導かれるまま、人間がぎりぎりすれ違えるくらいに狭い本棚の隙間の通路を藤乃は進んだ。脇を固める本棚のどの本も表紙はカラフルで、一体どんな内容なんだろうと想像をかきたてられる。

 書店の奥も奥、店主らしき老婦人のいるカウンターの前で藤乃を引き連れたイングリットは立ち止まった。


「先生、新刊は出てますか」

「よく来たね。丁度昨日入ったところだよ」老婦人はぎらぎらした目でイングリットに答える。「その子、例の新入りの子?」

「はい、藤乃ちゃんです。特務航空隊に正式に配属になりまして。まだ予備隊員に交じって訓練を受けてもらってますけど」

「そうかい、そうかい。ようこそ、スパルヴィエロへ」


 老婦人は藤乃に手を差し出し握手を求めてきたので、藤乃もそれに応えた。


「先生?」

「そう。ミリアム先生はスパルヴィエロの医療主任をする傍ら、この本屋を経営してくれているのよ」

「医療主任」


 医療主任ということは、スパルヴィエロの医療クルーの最高責任者ということになる。老婦人の正体に驚いた藤乃だったが、スパルヴィエロでは航空隊長が閑古鳥の鳴く店をやっているような船であることはよく知っていたので、転げ落ちるほどの衝撃はなかった。


「それよりイングリット。お求めの品は例のアレだろう」

「はい! 是非見せていただきたいです!」

「ふふ、奥にあるよ。見ていきな」


 わぁ、と歓声を上げるイングリットはそれまで以上に目に見えて上機嫌になっていた。バックヤードへと入っていくイングリットの後を追うように、藤乃もカーテンをくぐり「奥」へと進む。



 カーテンの奥、バックヤードは人がすれ違えられないほど狭い通路の両側に本棚が並び、そこにもやはり数多の本たちがずらりと並べられていた。イングリットはその細い通路をまっすぐ進んでいく。藤乃もそれを追いかけたが、そこでようやく藤乃はスサンナが別行動をとっていることに気が付いた。


「イングリットさん、スサンナさんがいませんけど」

「いいのよ。あの子はあの子で探す本があるみたいだし」


 藤乃はそこで「じゃあ私も」とイングリットと別行動を取らなかったことを後々後悔することになる。だがその時の藤乃は、紙の本に囲まれた彼女にとっては異世界に等しい本屋の空気に気圧され、ある種の酩酊状態にあった。そのためこの奥には何が待っているのだろうと好奇心に平らな胸を膨らませるばかりだったのである。


「さあ、着いたわ」


 イングリットが案内した「奥」は本屋のそれまでの光景とはまったく異質なものであった。

 本棚はやはり天井までの高さで本はびっしりと並べられているが、並ぶ本にはどれも背表紙がなく、数枚か数十枚の大きな紙を二つ折りにして留めてある中綴じのものばかりである。照明も薄暗く、棚の並ぶ場所のすぐ横にはガチャガチャ動く機械がせっせと本を印刷しており、明らかに文明的、文化的な「本屋」の姿にはそぐわないものであった。

 棚に収まる薄い本を物色しはじめたイングリットに倣い、藤乃も棚から一冊取り出してみる。藤乃が手に取った本は、小説でも専門書でもない、半裸の男性が二人、片方が片方の背を抱く様子が表紙に描かれた本であった。

 ページを開いてみると、中身はマンガである。細い線に細かく書き込まれたまつ毛や筋肉。そして――――


「あ、あの。イングリットさん」


 藤乃は本から目を反らしながらイングリットの軍服の袖を摘まんだ。


「何でこの本の男の人たち、キスしてるんですか……?」

「藤乃ちゃん、やっぱり貴女なかなか選球眼がいいわね」

「選球眼⁉」


 イングリットは藤乃が棚から取り出した本をひょいと摘まみ上げ、愛おしそうにその表紙をなぞる。


「これはつい一か月ほど前に有明租界に寄港したときに入荷した本なの。とても素晴らしい作品だわ。私もすぐに作者さんのファンになっちゃった」


 藤乃が見る限り、イングリットはその「うすいほん」の、男性同士が裸で絡み合う様子を描く過激な内容にもまったく動じていないどころか、あたかもそれが自然、当たり前のことであるかのように語っている。


「愛しているからこそ束縛したい、閉じ込めたい……そんな愛するがゆえに失う恐怖からくる、誰にも渡したくないっていう『攻め』の独占欲と、それに絆されて理不尽な要求を受け入れるようになってしまう『受け』の心境の変化が監禁モノの醍醐味よね」

「すいません、ちょっと言ってる意味が……?」

「表面だけ見ればこれはタカシが攻めでユウキが受けなんだけど、精神性は逆なのよ。タカシは本当はユウキを傷つけたくないし、束縛もしたくない……でも、愛する人が去ってしまったトラウマから、タカシはユウキを自分の部屋に監禁してしまうの。最初は激しく抵抗していたユウキも、お互いの愛を確かめ合ったことで――――」


 うすいほんの内容を饒舌に語り始めるイングリット。藤乃はその話を途中から脳内でシャットアウトしてしまった。聞いているだけで顔から火が出そうになる。詳細にうすいほんの中身を語るイングリットだが、藤乃が一番聞きたかった「なぜ男同士で愛し合っているのか」についての答えは、イングリットの口からはまだ語られそうにない。


「藤乃ちゃん、こういうの苦手?」

「い、いえ……苦手というわけでは」

「そうね。藤乃ちゃんには監禁ものはちょっと早かったかもしれないわ。だったらこっちはどうかしら。隣国のお姫様と政略結婚した王子様だったんだけど、そのお姫様が実は女装させられた『男の娘』だったっていう内容で……」

「わっ、私、他のとこ見てきますーっ!」


 藤乃は踵を返し、イングリットに背を向けて走り出した。


 スパルヴィエロ特務航空隊副隊長、イングリット・アガヴェルは腐女子である。

 時に厳しく、時に優しく隊員たちに接する部隊の「お母さん」的存在である彼女は、夜な夜な男性同士の絡みに想いを馳せ、こうしてBL同人誌を買い漁っているのだ。

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