第5話 文学少女たちの秘め事①
函館を出たスパルヴィエロはその進路を北東へ、アンカレッジ租界へと向けた。
セプテントリオンの襲撃により人間の活動は大幅に減少したが、その分植物も同様に減少し大気中の二酸化炭素濃度上昇は歯止めが利かなくなっている。流氷の南限も北上し、現在は北極海の極域にかなり近い海域でしか流氷は見られなくなっている。藤乃は眼下に広がる北太平洋を飛行甲板に腰を下ろして見下ろしながら、租界の学校で現在の地球について教わったときのことを思い返していた。
もう地球は終わりです。八歳から十八歳まで、さまざまな年齢の生徒十三人の集められた教室で、担任教師が去り際にそう叫んだのを藤乃は鮮明に覚えている。石巻租界の学校を任されていた教師の男は「破滅論者」として逮捕されてしまった。未来のある子供たちを教え導く立場にある教師が、人類の未来はもうないのだと将来を悲観させるような破滅思想を植え付けた、という罪状である。藤乃は逮捕された教師の男の名前をとうに忘れてしまったが、警官たちに取り押さえられながらも教卓にしがみつき、彼が遺した言葉だけは記憶に刻まれてしまっている。
終わるのは人類ではない。地球だ。もし仮にセプテントリオンを撃退できたとしても、破壊されつくした地球環境は人類の生存を許さないだろう。セプテントリオンにただ滅ぼされるか、あるいはそれに抗い、緩やかな滅びを迎える猶予をもらうか。藤乃は「地球は終わり」の言葉を反芻するたびに、破滅論に傾倒する人々に共感してしまうのだった。
「何をしている、ヒヨッコ」
飛行甲板で海を眺めていた藤乃の後ろから、スサンナが近づいてきた。
「あ、大尉。お疲れ様です」
振り返った藤乃が立ち上がり敬礼をするが、スサンナはそれに返すこともなく藤乃の隣にやってくるとそのまま腰を下ろした。
「敬礼はいい。今日は私も非番だ」
「はい」
藤乃は敬礼を解き、その場に座り直す。
「大尉は海、好きなんですか」
「まあな」
そう語るスサンナの横顔は、どこか悲しげであった。
同じブロンドでも、スサンナの髪はキャサリンのそれよりずっと色素が薄く、日に照らされるとプラチナ色に輝いて見える。シェルヴールになる漆黒の軍服こそ着ているものの、いつもの官帽を被っていないスサンナの印象は儚げである。藤乃は思わず「大尉って黙ってれば美人ですよね」と口走ってしまいスサンナのゲンコツを食らった。
「ヒヨッコ、お前はあのイシノマキの出身だったそうだな」
「はい。とってもいいところですよ。いえ、いいところでした、と言うべきかもしれませんけど」
セプテントリオンの襲撃でドームの一部が破壊されるまでは、藤乃もそんな感想を抱くことはなかっただろう。ドームの中での暮らしというのは、何もかもが管理された『ただ生きているだけ』の生活である。食料の配給を受け、与えられた仕事をこなし、決められた住居で暮らす。元防衛軍パイロットであった藤孝の特権で住居だけは自由を与えられていた碓氷家であるが、食料と仕事に関しては自由ではなかった。そんな生活の中で見た青い空はどこまでも澄んでいて、藤乃は檻の中から大空を夢見る小鳥になった気分になったものであった。
「……また故郷に帰りたいと思うか?」
「何言ってるんですか。もう石巻租界はないんですよ」
「仮の話だ」
「どうでしょうね」
藤乃は海から目線を上げ、空を見た。
少なくとも、透き通るほど青い空は今藤乃の手の届くところにある。青い空を自由に飛ぶ、その夢を藤乃は叶えたのだ。
強いて故郷への想いがあるといえば、残して来た家族や友人のことである。藤乃も藤孝やすばるにはまた会いたいと思うし、また会うために絶対生き残るとすばると約束したばかりである。だが彼ら彼女らがいるのは函館であり、故郷の石巻ではない。
「家族とか友達にはまた会いたいなって思います。でも今は空があれば十分かなって」
「そうだな」
空を見上げた藤乃とは対照的に、スサンナはうつむいて海を見たままであった。
スパルヴィエロに集められた航空隊員は各地の租界から集まってきたものたちである。スサンナも望郷の気持ちに駆られたりするのだろうか、と藤乃は思った。
「スサンナさんはどちらの出身なんです?」
「……ピーテル」
「ぴーてる?」
「あの水平線のずっと向こうだ。ずっと、ずっとな」
スサンナは海の果てを見つめていた。
水平線。空と海が交わる、あるいは空と海を隔てているそれを、スサンナはただじっと見つめていた。
「この船に乗って、故郷のことは思い出さないようにしていたんだが。お前が家族や友人に送り出されているのを見て、少しだけ……いつか叶うのなら、また家族に会いたいと思ってしまったよ」
「来ますよ。きっと、その『いつか』は」
藤乃の言葉に、スサンナは口元を緩めた。
やはり、黙っていればスサンナは綺麗な人だと藤乃は思った。黙ってさえいれば。あのフィクションに出てくる鬼軍曹のような、汚い言葉使いさえなければ。思わずそれを口走り、藤乃は本日二度目のゲンコツを食らった。
「はいはーい。しみったれた話はなしよ」
海風を頬に浴びていた藤乃とスサンナの間に、一人の女性隊員が割り込んできて肩にトンと手を置いた。
イングリットであった。蝋細工のように色白のきめ細かくて長い指は、戦闘行動よりもデスクワークばかりしている証である。
「二人とも折角の休みなのに。こんなとこで何してるの」
「お前こそこんなところで何をしている。貴様は連絡室待機のはずだろうが」
「半舷休暇令が出たのよ」
半舷休暇。すなわち、艦内のクルーの半分にそれまでのシフトに関係なく一律に休日を取るよう指示する命令である。スパルヴィエロのクルーになって日の浅い藤乃でもその命令の意味は分かっている。
すべてのクルーが休息を取った後、作戦行動に――――セプテントリオンとの戦闘に入るという合図である。
「くそっ、よりによって非番の日に半舷休暇とは!」
「ツイてないですね」
「まあまあ、いいじゃない。それでスサンナ、どうかしら。一緒に本屋でも行かない?」
イングリットは両手を胸の前で組み、ニコニコ笑っている。イングリットは休日にスサンナと本屋に行こうと誘いにきたのだ。
「本屋か」
それまで陰鬱な表情で海を見ていたスサンナの表情がぱっと明るくなる。
「悪くないな。ハコダテの補給で新しい本が入っているかもしれん」
「藤乃ちゃんもどうかしら。本に興味ない?」
「おいよせ。お前の趣味に新入りを巻き込むなよ」
「いいじゃないの。ものは試しよ。今日何か予定がないのなら一緒に行きましょ」
「はい、ご一緒させてください。じゃあ端末持ってきますね」
「端末ならいらないわよ。さ、善は急げっていうし早く行きましょ」
立ち上がった藤乃の背中を押すようにして、イングリットはニコニコ笑いながらスパルヴィエロの甲板を歩き出した。スサンナはその後ろをとことこ歩きながら、ふと立ち止まり振り返った。
水平線はまだそこにある。水平線の果てでも、空と海が完全に溶け合うことはない。
当たり前である。空は空、海は海なのだ。だがそれがスサンナには、酷く残酷な事実で
あるかのように思えるのだった。




