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石巻租界民がスパルヴィエロを降りる日。特務航空隊の一員となった藤乃にも任務が下った。
特務航空隊の面々と共に、函館租界の空を戦技飛行するのだ。「私たちが空を守ります」という租界住民に対するアピールであると同時に、最もセプテントリオンの襲撃を受けやすい租界内外での人の出入りにおいて守りを固めるのが目的である。
藤乃はリンファたち予備隊員の使うEA-6Bと編隊を組むことになっている。特務航空小隊唯一の日本人であり、石巻出身の藤乃の存在は石巻および函館の租界民にも大々的に広報された。火器の扱いにはまだ慣れないものの、飛ぶだけなら藤乃にとっては得意分野である。戦技飛行の大役の任務を、藤乃は緊張と興奮を交えて受領した。
イングリットの組んだ戦技飛行プログラムをみっちり頭に入れようとブリーフィングを聞く藤乃だったが、一つ気がかりなことがあった。すばるのことである。航空隊に入ってからというものの、藤乃はすばると部屋も別になり話す機会が無くなってしまっていた。
泣きながら、藤乃にもう飛ぶなといったすばる。あの日以来、藤乃はすばるとちゃんと言葉を交わせていなかった。
「なんか心配ごと?」
戦技飛行の直前、カタパルトで離陸準備を進める間も、藤乃は気分が重かった。それを察したリンファが声をかける。
「はい。実は石巻の友だちと中途半端なお別れをしちゃって……それっきり、あんまり話せてないんです」
「まあ大変。どうするの?」
「本当はちゃんとお別れを言いたかったんですけど……勇気が出せなくて。タイミングを失っちゃいました」
「タイミング? なら今日言えばいいじゃない。今日しかないよ」
「今日って。リンファさん、これから私たち飛ぶんですよ?」
「ちゃんとお別れを言わないと一生後悔するよ、藤乃。だから今日言ってきな。戦技飛行の途中に、その子のとこ行ってきなよ。藤乃が編隊を抜けてる間は私がなんとかしてあげるから」
「そんな、悪いですよ」
「気にしない気にしない。故郷の友だちとのお別れだよ? 任務なんかよりそっちのほうがずっと大事だって」
「でも……」
「藤乃。誰でも代われる自分の仕事より、自分の代わりなんていないって言ってくれる人を大事にしたほうがいいんだ。藤乃が今やるべきことは、空を飛ぶことより後悔しない人生を送ることなんだよ」
リンファの順番が回ってきた。藤乃が呼び止める間もなく「じゃあ行くね」と言ってリンファはカタパルトに立ち、エンジンを噴かして滑走を始め、空へと上がった。
「次、碓氷!」
スサンナに呼ばれ、藤乃もカタパルトに立つ。バッジを操作し、シェルヴールを起動する。何度使ってみても、装着の際の衝撃はなかなか慣れるものではない。藤乃はカタパルトの前でよろけた。
前を見据える藤乃の視界には、函館の横風で猛り狂う白波と、その奥に秋の日差しを反射して銀色に輝く人工物のドームが入っている。函館租界はセプテントリオンの襲撃をあまり受けていないのか、外観はかなり真新しい。
荒波に当たるか当たらないかの低空を飛行しているのは、スパルヴィエロに搭載されている小型の揚陸艇三艘であった。外から見える開放デッキにまで避難民を満載した揚陸艇は、セプテントリオンに見つかりにくいように波の合間を縫って租界のドームに向かっている。
あの中のどこかにすばるがいる。すばるは藤乃の雄姿を見ようと開放デッキに出ているだろうか。あるいは、もう藤乃のことなんて知らないと外から見えない場所に籠ってしまっているだろうか。藤乃は前者であってほしいと願いながら、F-4EJのスロットルを上げた。
「碓氷藤乃、行きますっ!」
藤乃の体はF-4EJのジェットエンジン噴射に背中を押されて、函館の風の中へと飛び出した。
横風が強い。押し流されそうになる翼を必死に抑えながら、藤乃はまっすぐ空へと舞い上がった。
同じ秋でも、東北地方の石巻に吹く風とは全く違った。藤乃は頬を打つ氷点下の風に耐えながら、揚陸艇の開放デッキに目をこらす。プログラム通り藤乃を先頭にV字編隊を組む予備隊員たち、藤乃のすぐ右後ろにはリンファがついた。
『藤乃。みんなにさっきのこと話したら協力してくれるってさ』
「え?」
リンファからのレーザー通信に藤乃も驚く。
『みんな租界の友だちから離れてここに来てるからね。お別れを言えなくて後悔してる子だっている。みんな喜んで協力してくれたよ』
「みんな……」
『いっそそのまま函館で降りてもいいんだぜー? そのほうが正隊員の席も空いて昇格しやすくなるしな!』
予備隊員の一人のジョークに、皆がわははと笑っている。
『その会いたい子の名前を教えて。名簿から検索する』
「『中嶋すばる』って子なんだけど」
藤乃が名前を教えて数秒で、F-4EJのヘッドギアは藤乃の網膜にスパルヴィエロの乗船名簿に登録されたすばるの顔写真を映し出した。同じ画像は隊員たちのEA-6Bにも共有される。
『よーしみんな、この子を探すよ!』
藤乃を含めて、総勢七機のV字編隊。世界各地の租界民から選抜された、シェルヴール使いの予備航空隊員として集められた彼女らは、一人一人が一流のパイロットたちだ。それゆえに函館の強い横風に煽られても、誰一人姿勢を崩すことはない。一糸乱れぬ編隊飛行で、藤乃たちは白波の立つ海上を飛んだ。
あとは祈るしかない。すばるが藤乃の雄姿を見るために外に出ていることを。藤乃はプログラム通りの飛行パターンをこなしながら、揚陸艇の開放デッキに目をこらした。
一隻目。開放デッキに出ている人はまばらだ。皆藤乃を見上げて手を振っている。藤乃はそれに手を振り返すが、そこにすばるの姿はなかった。
二隻目。藤乃たちの雄姿を見ようと開放デッキにはそこそこの人が集まっていた。藤乃はその中に藤孝の姿を見つける。隣の人と肘がぶつかるのも構わず敬礼をした藤孝に、藤乃は空から敬礼を返した。藤孝に肘をぶつけられた隣の人が藤孝の胸をバンと叩いて抗議しているが、藤孝はそれに構わず藤乃をまっすぐ見て敬礼を続けていた。
しかしここにもすばるの姿はない。やはりすばるはもう自分になんて会いたくないのではないか――――気が重くなり、藤乃が目を伏せた、その瞬間である。
『いた!』
レーザー通信が藤乃のヘッドギアに響く。
『三隻目、開放デッキの一番奥!』
藤乃のヘッドギアに、隊員の一人が撮影した開放デッキの写真が投影された。藤乃たちを見ようとデッキに出ている人々、その一番後ろにすばるはいた。
最初は中に籠っていたのであろう、開放デッキから奥に続く出入口の近くにすばるは立っている。その顔はまるで巣穴から出てきたキツネの子のようだ。不安、そして期待の入り混じったような顔で、写真の中のすばるは藤乃を見上げている。
藤乃も三隻目の前を通るときに、開放デッキを見た。すばるは胸の前で祈るように手を組み、藤乃のほうをまっすぐ見ていた。
『行っておいで、藤乃』
「リンファさん」
『式典の戦技飛行プログラムはこっちでなんとかするから』
「でも……」
『なんだよ! 折角探してやったのに、オレたちの協力を無駄にするんじゃねーよ』
藤乃はこの期に及んで尻込みしていた。すばるにはもう飛ぶなと言われたのに、藤乃はまだ飛んでいる。今更すばるとどんな言葉を交わせばいいのだろうか。きちんと「さよなら」をすばるを傷つけずに言えるだろうか?
『藤乃』
レーザー通信に聞きなれない声が入り、藤乃は驚いた。
正確には、藤乃はその声自体は聞き慣れている。ヘッドギアからその声が聞こえたことに驚いたのだ。
『行ってこい、藤乃。友達にお別れを言ってこい』
声の主はキャサリンであった。藤乃たちのずっと上、高い高度から見下ろすように哨戒飛行をしているキャサリンが、藤乃たちの通信に割り込んできたのだ。
『え、隊長⁉』『本物?』
突然レーザー通信に割り込んできた特務航空隊隊長の声に、隊員たちは困惑している。
『ごめん、アタシだ』リンファが嬉しそうな声で言う。『プログラムの変更は隊長にも話は通しておいたほうがいいと思って』
『藤乃、前に言っただろ。戦うだけが私たちじゃない。お前の大切な日常は、お前が自分で守らなきゃダメだ。函館を離れたら、通信も繋げなくなる。お前はこのままさよならでいいのか?』
「……よくないです」
『じゃあ行ってこい。隊長権限で一時離脱を許可する』
藤乃は意を決し、機首を上げた。
ごう、と分厚い空気の壁が藤乃の体に押し付けられる。エンジンの推力だけで高度を上げた藤乃は編隊を離れ、そのまま上空に向かってループを描いた。ワア、と歓声が上がる揚陸艇の三隻目、すばるのいる開放デッキに向かって、ループを出た藤乃は急降下してゆく。
なんらかの異変を感じたのか、開放デッキの縁に避難民たちが避けて輪ができた。藤乃はその輪の中心にすたっと着地し、シェルヴールを元の軍服の姿に戻す。
「すばる」
「ふ、藤乃……?」
突然の出来事にすばるはおどおどしてその場に立ちすくんでいた。
「ホントは二人っきりになったときに言えればよかったんだけど。ごめん、ずっと言えなくて」
「う、うん」
「ごめんすばる。私はすばるとは一緒にいられないんだ」
すばるに何と言おうか、ここまで藤乃はずっと考えていた。だがすばるを前にすると、藤乃が考えていた言葉は全部無くなってしまった。すべて何もかも、あの空へ置いてきてしまったのだろうか?
「私はシェルヴールで、あの船で、空を守るよ」
「藤乃……」
「飛ぶのが楽しいからじゃない。誰かに命令されてやるわけじゃない。これが私のやりたいことなんだ」
藤乃は自分の着ている軍服の六芒星のバッチ――――シェルヴールの起動スイッチを右手で掴んだ。バッチの下には「少尉」を示す階級章が縫製されている。それを見つけたすばるは表情が暗くなった。
「すばる。いつか租界のドームから出る日が来たら、空を見上げて欲しい」
「空?」
「きっと私はそこにいる。私の守った空が、そこにあるから」
「藤乃……そっか、私もちゃんと言っておかないとね」
すばるは自分の服の袖で目元をぬぐった。
「藤乃、私エンジニアになるよ。函館には防衛軍のシェルヴール研究開発室があるんだって。私、そこに入れるように頑張る」
「そっか」
「いつか、私が作ったシェルヴールを、また藤乃に使ってもらいたいんだ。それが今の私の夢」
「良い夢だね。すばるならきっとできるよ」
「私は飛べないし戦えないけど……それでも、飛べる藤乃に出来ることがあるように、飛べない私にも出来ることはあるって思ったんだ。だから――――」
すばるは藤乃に近づき、その体を強く両腕で抱きしめた。
「死んじゃイヤだよ、藤乃。私が作ったシェルヴールを着るまで、絶対生きていて。藤乃が死んだら、私の夢が叶わなくなっちゃう」
すばるは藤乃よりも少し背が高い。のしかかるように体重をかけて両腕で藤乃を締めるすばるの背中に、藤乃は両手を回した。
藤乃の肩に、熱いものが落ちる。すばるの零した涙の粒が、藤乃の軍服に吸い込まれて消えた。藤乃がすばるの無言の涙を受けるのはこれで二回目だ。だが、以前のような「重さ」を藤乃は感じなかった。
「藤乃。さよならは言わないから」
「うん、私も。ずっとなんて言ったらいいか分からなかったけど……やっとわかったよ。私が言いたかったのは『さよなら』じゃなかったんだ。私はすばるに『また会おうね』って言いたかったんだ」
生きていればきっとまた会える。そんな月並みな別れの言葉ではない。
藤乃は空を飛び、すばるは地上からそれをサポートする。その関係はこれからも変わらないのだ。一緒にいられなくても、空で、心で、二人はいつまでも繋がっている――――それはすばるにとって幸福でもあり、不幸でもある。空を舞う天使は地に降りて暮らすことはできない。鋼鉄の翼を持つ藤乃は、すばるとは生きられないのだ。
「……そろそろ行くね」
「うん」
藤乃はすばるを放して背を向けた。シェルヴールを起動し、スロットルを上げて開放デッキの甲板を蹴る。背負ったバックパックが噴射する気流で、藤乃は横風の強い函館の空へと上って行った。
すばるはデッキに立ったまま、藤乃の姿が小さくなるのを見つめていた。
藤乃が噴かしたエンジンのジェット気流が甲板に吹き荒れ、避難民たちが激しい風に顔を覆っても。すばるは構わず空を見上げている。
藤乃はすばるに背を向けた。空へ向かって飛び立っていった。天使はすばるの元を去っていった。
だが、すばるは藤乃と同じ方向を向いている。
雲一つない、透き通るような北の大空。その彼方、ずっと未来の、平和な空を。すばるは藤乃と一緒にずっと見つめていた。




