第1話 鋼鉄の翼の天使①
石巻の夏の海風が、少女の頬を撫でていく。
高台の上から、碓氷藤乃は眼下に広がる租界を見下ろしていた。
あの怪物――――『セプテントリオン』から、身を隠すように藤乃たちが暮らす石巻租界。前回の襲撃で大きく破損したドームはまだ修繕工事中で、新しく溶接された部分はまだ錆びていない、鉄のきれいな銀白色をしている。
あれが完成したら。藤乃は作業が早く終わって、またセプテントリオンに脅かされない平穏な日常が一日でも早く戻ってくることを望んでいる。そのはずなのだが。
「……空、また見られなくなっちゃうのかな」
藤乃の見上げる空からは、入道雲がその白い巨体を屈めて藤乃を見下ろしていた。
ドームが完成すれば、また租界地は分厚い鉄の屋根に覆われてしまう。明かりといえば水耕栽培用の農業プラントから漏れる光くらいのもので、ここ石巻租界はまた暗い世界に逆戻りだ。
かといって、租界から出て行くリスクは冒せない。セプテントリオンに居住地を奪われた人類の住む場所は、あの鉄の屋根に覆われた狭くて暗い租界地だけなのだ。
人々は人類史を巻き戻し、ほら穴生活に戻ったのである。
「よし、今日も一丁、行きますかっ」
藤乃は少しひんやりとした、潮の匂いの混ざる空気を胸いっぱいに吸い込んだ。
肺が空気で膨らんで、まるで風船にでもなったような気分だ。幸い、藤乃の胸には肺以外に膨らむべき要素がなかったので、その分大きく空気を吸うことができた。
「T2、スタンバイ」
音声認識システムが藤乃の声に呼応し、背負ったバックパックから、するするとベルトが伸びて藤乃の体に巻きついていく。頭部には前に突き出すように尖った円錐形のヘッドギア、胸や手足には衝撃吸収用のプロテクターが装着されていき、バックパックからは金属製の主翼と尾翼が展開されて、藤乃は戦闘機を『着た』ような姿になった。
藤乃に翼を与えた、初期型シェルヴールの一機。それがこのT2だ。
「エンゲージっ!」
大地を蹴り、バックパックのエンジンに点火する。
すぅ、と体を押し上げるように。ジェットエンジンの出力を上げていくと、速度はどんどん上がっていった。藤乃が体を水平にすると、翼が空気を掴んで揚力を発生させる。
藤乃はこの瞬間が一番好きだった。まるで、見えない鳥に背中を掴んで運んでもらっているような。世界のどこまでも飛んでいけそうな錯覚を覚えてしまう。
石巻の海風を纏った藤乃は、鋼鉄の翼で空を舞う天使になった。