猫による支配
掃除の行き届いた室内、いかにも高級そうな絨毯――そこは、世界の覇者たる超大国の大統領に相応しい執務室だった。
「そういうわけで、あなたに調査を依頼したいわけです、アルベルト博士」
一介の研究者に過ぎないアルベルト博士が、ここに呼び出され、大統領直々の説明を受けることは普通あり得ないことだ。それにも増して博士を混乱させたのは、その説明された内容だった。曰く、宇宙軍の中に秘密裏に創設する部署で、宇宙人の侵略に備える研究をして欲しいというものだった。
人類が地を駈け、海を渡り、空を飛び、行動範囲を広げる度に、軍隊も新たな軍種を生み出してきた。もちろん、宇宙開発も平和利用のみならず軍事的にも重要であることは論を待たない。近年、この国でも宇宙軍が創設されたことは周知の事実だ。しかし博士の理解では、それはあくまで他国に対する軍事力であって、地球外の敵を想定するものではなかったはずだ。
「大統領。お言葉ですが私は軍事の研究家ではありません。私の専門は生物学です」
「だからこそだよ。宇宙人がどのような生態を持っているか、我々は想像だにできないのだから」
結局博士は、それを引き受け(現在勤めている大学には勝手に離職届を提出済みだというのだから、断れるはずもない)、釈然としないまま大統領官邸を辞した。
「地球の常識が通用しない外来生物がどのような生態かなんて、私にも分かるわけないじゃないか。SF作家にお願いした方がよっぽどマシじゃないのかね」
そのまま自宅に帰る気になれなかった博士は、あてもなく街をさまよった。
「我々が考えるような侵略ばかりが侵略と言えるのだろうか? いや、人類が知る侵略の形が、武器を振り回すというものであったから、そう感じているだけだ。宇宙人が超科学兵器を使って人類を圧倒するというのはいかにもステレオタイプだ。
では、どんな侵略が考えられるだろうか――」
そこで偶然目にとまったのは、のんびりとくつろぐ猫であった。野良猫のようだが、人を怖がりはしないようだ。宇宙人の侵略という突拍子もない話を聞いた後だったからか、博士の思考は、いつもとは一風変わった方向へと突き進みだした。
「そうだ、猫だ。果たして人類は猫を飼っていると言えるのだろうか。そういえば、友人のロバートも『私は猫を飼っていない。猫に住んで頂いているのだ』と豪語していたな。多くの者は猫を飼う者は猫の飼い主と見做される一方で、猫の飼い主に飼っているという自覚はあるのだろうか。
例えば有名なシュレーディンガーの猫という思考実験は、猫だからこそ有名になったとも言える。『半死半生のネズミ』と喩えても神秘さは醸し出されなかっただろう。半死半生の《猫》だからこそ、人口に膾炙したと言えないだろうか。
人類の文化に根付き、飼い主を傅かせる――猫は人類を支配していると言っても過言ではない!」
博士は、その結論に至った時、体に戦慄が走った。大統領が宇宙からの侵攻を危惧するよりずっと昔から、人類の文明が始まった頃から既に、我々人類は他種族に隷属していたのだ。
既に博士の心は決していた。この重大な事実を、大統領に報告しなければならない。
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猫は絶滅させるべきである――という書き出しから始まる報告書は、如何に猫が危険であるかを、如何にして猫を抹殺するかを説いていた。大統領は、そのぶ厚い報告書を読むのを止め、博士に目を向けた。
「これは何だね」
「侵略者に対する対処法をまとめています」
政治に興味がない博士は知らない事であったが、大統領が愛猫家であることは周知の事実であって、そんな彼にこのような報告書を提出するというのは、嫌がらせか、さもなくば精神に異常をきたしているかのどちらかだった。どちらにしろ大統領の結論は変わらなかった。
「出ていきたまえ」
博士はそれが信じられないという形相で抵抗したが、屈強なSPに軽々とつまみ出され、なす術もなく職を失った。
呆然と佇む博士の前に、野良猫が現れたかと思うと、「にゃあ」と一鳴きして去っていった。博士には、これまでのことが自分を嵌めるための壮大な罠だったこと、それにまんまと引っかかった自分を嘲笑するためにこの猫が現れたのだと理解した。
これまであった闘志はもう萎えてしまっていた。重大な秘密を暴こうとする者は、速やかに排除される――それがSFの様式美であるということに、博士は今更ながらに気付いたのだ。
つまり、これまでも、そしてこれからも、人類は幸福の内に猫に支配されているのである。