ある廃神殿の話
結論から述べると、こんなところへは来なければよかったと思うし、こんなことに関わるべきではなかった。どこの界隈も似たようなものなら、もはや僕にできることは何も残っていない。
崩れた神殿の柱や屋根を素材にして、彫りたい者が誰でも自由に彫像を創作しているという噂だった。しかし神殿へたどり着いてみると、誰でも自由になどとは、とても言える状況ではなかった。何の取り柄もなかった僕が「これならば手応えがある」「これならば時を忘れられる」と信じて踏み込んだ彫刻の道だったが、建ち並ぶ傑作の数々たるや!!世の中にはすばらしい腕前の持ち主がいくらでもいるものだ。新たに僕が何か付け加える意味はないとさえ感じ、ただただ打ちのめされた。
創作とは自己満足だ。彫像が仕上がるのは彫刻家が満足したときであり、満足しない者ほど高みへ登り詰めることができる。ある日、ふらりと現れた天才が黙々と彫り上げた傑作をきっかけに、下手くそ同士が脇目も振らず己の作業に没頭する自由気ままな創作の場は、互いの作品の仕上がりを見比べて切磋琢磨する場になってしまい、僕が到着したときには、ある種のヒエラルキーが出来上がっていた。
天才は黙々と彫り続けたが、うるさいのは外野だった。神殿の噂を聞きつけた見物人達が僕の彫像や僕以外の彫像を勝手に批評し、勝手に投票して順位を決め、明日の順位を予想する賭博を行った。批評家達のうちにも派閥があるらしく、お気に入りの彫刻家を持ち上げるために、他の彫刻家の作品を“下手くそは彫るな”という落書きで侮辱したり、闇夜に紛れて破壊するようなこともあった。
神殿を訪れる見物人の数はいつしか彫刻家の数を上回り、無数の目が作り出した“下手くそは彫るな”という空気が、未熟な者や作風の特殊な者から順に彫刻家を駆逐していった。参入するなら批評家達のお眼鏡にかなわなければならなかった。彫像の出来が悪いと見なされれば観衆から礫を投げつけられ、彫像の出来がいいと見なされても嫉妬心によって礫を投げつけられる状況では、誰も新たに彫りたいなどと思うわけがない。
僕は自分の創作にかかりきりで、いつの間にか天才が姿を見せなくなっていたことにまったく気がつかなかった。そのころ神殿は頑丈な柵で囲まれ、門のところで興行師が見物客から入場料を徴収するようになっていたが、これ以上噂の天才の傑作が増えないと理解し始めると人々は飽き、それゆえ入場料の商売も成り立たなくなり、野次馬が去ったあとには劣等感に苛まれる哀れな彫刻家達だけが残った。僕達の彫像は観衆受けする傑作の模倣と、傑作の模倣の模倣と、傑作の模倣の模倣の模倣と、百万回もの模倣にすぎなかった。いくら褒められたとしても、こんな創作は楽しくもなんともなかった。
……短距離走や拳闘であれば選手の優劣は明らかだが、いったい芸術の美しさに関して「私は好き」「私は嫌い」といった個人の感想以上に何が言えるのだろうか?頭は大きいほうが好きとか、筋肉は多いほうが好きとかいったバラバラの好みがたくさん集まったところで、その彫像が総合的に他より優れていると、だから優れていない作品は無視されても侮辱されても当然だと、言えるのだろうか?僕には、批評家達が派閥の主張を正当化し、対立する派閥をやり込めたいがために投票したり順位を決めたりしていただけとしか思えないのだが?人に作品を見てもらいたくないと言えば嘘になるが、とにかく批評だの順位だのはもうたくさんだ。