09 がーるず・れとりーぶど!
「じゃ、じゃあ……あのときの、橋の上にいたおとなしい女の子が、貴女だったの?」
「……うん」
いつの間にかシャワーを浴び終え、着替えも済ませていたソラが、シャワールームから出てくる。
百花は彼女……いや、彼の顔をじっくりと見る。
「そ、そうなのね。でも、も、申し訳ないのだけど……ワタクシはあのときのことなんて、ほとんど覚えてなくて……」
百花は、あのときの少女とソラが同一人物であるとは今まで夢にも思わなかった。
彼女は今まで、本当にイケメンにしか興味を示してこなかったのだ。たとえそれが同じ学校のクラスメイトであっても、まともに女性の顔なんて見ようとしてこなかった。ソラも、千尋も、蒼も、それ以外のすべての女性も。百花にとっては、「イケメンではないモブキャラ」でしかなかったのだ。
ましてや、アシュタの魔法によってすべての女性の顔がイケメンに変わってしまっている状態では、記憶の中の少女の顔と今のソラが、結びつくはずがなかった。
「うん……。それも、しょうがないよね……」
ソラは、少し悲しそうにうつむく。
「あのあと、私を励ましてくれた女の子はすぐに車で病院に運ばれて行っちゃって……私、そのときのお礼を言いたくてずっと探してたんだけど、全然見つけることができなくって……。でも高校生になったときに偶然、同じ学校にいる百花ちゃんを見て気づいたんだ。あ、この子があのときの女の子だ、って……。だから私、実は今まで何度も百花ちゃんに話しかけようとしたんだけど……でも、なかなかうまくいかなくて……」
「えへへ……」と笑うソラ。
百花は、その笑顔を直視することが出来ない。
「だからさ……。さっき百花ちゃんがヌイグルミを川の中に落としちゃったとき、チャンスだって思ったんだ。あのときのお礼をするチャンスだ、って。……もちろん。そうだとしても、本来は水科さんが言ってたようにスタッフの人に拾ってもらえばよかったんだろうけどさ……。でも、あのときの百花ちゃん、すごい慌ててたでしょ? ヌイグルミが川に沈んじゃうことが、本当に辛そうだったでしょ? だから、あのまま見てるなんてできなくて……私が濡れるだけで今の百花ちゃんの辛さがなくなるなら、って思って、飛び込んじゃってたんだ」
「……」
「あ、それにさ! もしかして百花ちゃんって、水が怖いんじゃない⁉ ほら、私と出会ったときに溺れちゃったせいで、水恐怖症になっちゃったとか? だから、大好きなヌイグルミが水に沈んじゃうのを見て、自分が溺れてるような気になって、すごい慌てちゃったんじゃない⁉」
「……え、ええ」
確かに。
さっき川にヌイグルミを落としたときの百花は、普段の彼女にしてみるとずいぶんと取り乱していた。しかしそれは、彼女が水恐怖症なわけではなかった。
それは百花が、アシュタの魔法にかかっていたからだ。あらゆる女性を自分好みのイケメンに見てしまう魔法によって、ヌイグルミのかわいらしい雌鷹を雄鷹に見ていたから。だから、そんな大好きなイケメンキャラクターが川に落ちていくのを見ているのが、我慢できなかったのだ。
百花にとっては、そのイケメンキャラクターのヌイグルミを失うこと……やっと手に入れたイケメンという『自分の好きなもの』を手放してしまうことは、とても重大な意味があったのだ。
「はい、百花ちゃん」
さっきのヌイグルミを、百花に手渡すソラ。気をきかせたパークのスタッフが大急ぎで洗濯してくれたらしい。すでに水気はなく、むしろ、柔軟剤がたっぷりきいて元よりもフワフワになっているくらいだ。
「ふふ……。百花ちゃんって、本当にこれが大好きなんだね? 私、ちょっと嫉妬しちゃうな……」
また少し寂しげな表情で、そうつぶやくソラ。それは、百花とソラが初めて会ったあの日、橋の上でしていた表情だった。
「え、ええ……そう、なの。ワタクシ、本当にイケメンが、大好きなのよね……」
ヌイグルミを受け取り、そんなソラに、いつも通りの残念なセリフを言って高笑いでもしようとする百花だったが……その声は後半に行くにつれてかすれてしまう。最後には、すぐ近くのソラにさえ聞き取れないほど小さくなっていた。
「……行こ?」
ソラはそこでようやくいつもの可愛らしい笑顔を取り戻し、ヌイグルミを持つ百花の手を取る。
「え……」
「まだ、アトラクションはいっぱいあるよ? 百花ちゃんの行きたいとこ、どんどん行こうよっ!」
一瞬戸惑う百花。
だが、やがて「そ、そうね……」とうなづいた。
そして二人は、会話も少なく、そのシャワールームを出て行った。
………………
二人が部屋を出て、しばらくしてから。
ソラが入っていたシャワールームの隣の個室から、二人の人間が出てきた。
「ふむふむ、なっるほどねー。ソラっちは、モモカっちとそういう関係だったんだねー?」
「まあ……子供のころの経験というのは、ある種の呪いのようなところがありますからね。その人間の心を支配し、何年たっても、いつまでもいつまでも影響を与え続けてしまうものなのかもしれません。……そうでも考えないと、うちの残念お嬢様に好意的な感情を持っている人間がこの世に存在するということへの、説明がつきませんから」
ニヤニヤと笑っている蒼と、その隣で淡々と考察しているメイドの天乃だった。
「よーするに……ソラっちにとってモモカっちは『精神的な命の恩人』、言い換えるなら『初めて自分が好きなものを肯定してくれた人』なんだね。つまりはとーっても深ーい思い入れがある、『特別な人』ってことだー? うーん。こうなると、ただの『テーマパークヲタ』のチヒロっちには、ちょーっと荷が重いかもねー? ……しゃーない、ここはアタシが、一肌脱いであげよーじゃーないのー!」
「……」
ここまでずっと様子見で何もしてこなかったくせに、いやに余裕ぶっている蒼。そんな蒼に、天乃は少し半信半疑の表情だ。
「それだけ言うからには……福地蒼様には、何か作戦でもあるのですか?」
「んっふっふっふー。このアタシを、誰だと思ってるのー? アタシは、『学校の全員と友達になる』のが目標の、学校一の人たらしだよー? ソラっちからモモカっちを横取りするなんて、よゆーっしょ!」
「はあ……」
『友達になる』のはあくまでも目標で、実際にはまだ全員と友達になれてないんですよね? だって、そもそも今日の時点で百花お嬢様や水科千尋様とお友達じゃなかったですもんね?
とツッコミを入れたいところを、――自分の雇い主ではない蒼に一応気をつかって――何とかこらえて、ただただ適当な相槌をうつ天乃だった。
………………
それから。その二人がソラと百花を追って出て行ってから、更に数分後。
シャワールームの入り口の扉を勢いよく開けて、一人の少女が入ってきた。
「鷹月さん、おまたせ! びしょ濡れなあなたのために、パークのショップでタオルを買ってきてあげたわよっ⁉」
黒髪ロングの学級委員長、水科千尋だ。両手からあふれるほど大量のタオルを抱えている彼女は、うれしくてしょうがないという様子で続ける。
「それにしても、このパークは相変わらず油断ならないわねっ⁉ 先週来たときは確かに全部もう持ってるやつだけだったのに……今見てみたら、ショップのラインナップが完全に一新されてるんですものっ! テンション上がりすぎて、一新された商品を全種類コンプしてたせいでちょっと時間がかかっちゃったわよっ!
あー、同じタオルを五つずつ買ってあるけど、『普段使い用』か『布教用』で体を拭いてね? もしも仮に、私の『保存用』とか『保存用の予備用』とか……『特別な日の自分へのご褒美用』を使ったりなんかしたら……許さないからねっ! ……って」
そこでシャワールームを見渡した千尋は、気づく。
「あ、あれ?」
室内が、やけに静か……というより、自分以外の人間がすでに誰もいないということに。
「ちょ、ちょっと⁉ 鷹月さん⁉ 千本木さん⁉ どこに行ったのよーっ⁉ 私を置いて、勝手に行動したりして……ど、どうなっても、知らないわよっ⁉ 素人だけでパークを自由に攻略するなんて、できるわけないんだから! どうせ後で、パレードの場所取り失敗して……すっごい遠くから音だけ聞くことになるんだからねっ⁉ 私だけで、『イグレ子リカル・パレード』を満喫しちゃうんだからねーっ⁉」
結局最後には、表裏どちらも当初の目的を完全に見失っていた千尋だった。